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"本稿は東京大学史料編纂所・押小路文庫が所蔵する、写本『功名咄』(三巻六冊)のうちの巻中ノ下を底本として翻刻するものである詳細な書誌は完結時に記すとして、本書は片仮名漢字混じり本、三巻(上・中・下)六冊、縦二十五・六糎、横十八・四糎後補書題簽、左肩単辺序文に「元禄八乙亥歳夷則(七月)下旬/哺盡記探西翁之」の署名があるが、探西翁が誰であるかはまだ突きとめていない今稿に収める中巻ノ下は墨付四十三丁半(二二話)目録はすべて「○○咄」(例外がある)で統一されている本『功名咄』は底本の押小路文庫本以外に、金沢大学附属図書館・北条文庫と、大洲市立図書館・矢野玄道が蔵する二本とも片仮名漢字混じり本、大洲本は巻下ノ下を欠き、上巻表紙(書題簽下)に「堀部彌兵衞著」とある三本ともほぼ同内容であるが、細部に若干の異同があり、それらを比較するに、三本とも原本とは言えず、三本にる祖本があると想定される他に京都大学附属図書館蔵『武道萃録』二八三・二八四に、『功名咄』下ノ上・下二冊が収録され(平仮名漢字混じり)、また、明治四十一年十月刊『功名咄前編』(川口一雄校正・報行社刊)が、『功名咄』上巻を絵入りで翻刻し(ただし四八話のうち八話欠)、国立国会図書館と学習院大学附属図書館が所蔵する今稿の初稿は井高美妃(本学大学院修士課程修了)が作成し、それを江本が凡例を作成しつつ校閲した従って最終的な文責は江本にある当初、江本は、本書が別題の先行書の転写ないしは抄出ではないかと疑って調査を試みたが、管見の範囲、独自の武辺咄であるとの結論に達している順次翻刻して、読者の判断を待つものである凡例一底本は東京大学史料編纂所・押小路文庫所蔵の『功名咄』(三巻六冊)の、中ノ下(四冊目)である二翻刻にあたっては原本を忠実に翻字するように努めたが、通読の便を考慮して、概ね次の方針に従った1本文各話で数箇所の段落を設けた(底本・他本とも段落はない)2底本には句読点はないが、私に句読点を施したなお闕字に関しては、二字空けに統一した3本文の中で会話体となっている所、また心中思惟・格言と見なされる場面には「」を付けた4本文右傍には割書(時には左傍)があるが、当該箇所の下にを付けて区別した三漢字について『功名咄』四(中巻ノ下)(49)491常用漢字にあるものは原則として現在通行の字体に改めた2異体字・略字は原則通常の字体に改め、宛字は正常の文字が想定できる場合にはそのまま用い、難読なものについては平仮名・現代仮名遣いでルビをつけたまた原文は「衛」(数箇所では「ヱ」)、「類」、多く指示代名詞として用いられる「彼」を、殆どの場合「彳」・「」・「皮」と略しているが、すべて「衛」・「類」・「彼」で表記した3「篭」と「籠」、「砲」と「炮」は使い分けた四仮名について1底本は稀に濁点を付し、殆どの場合濁点を付していないが、底本のままとした2底本に用いられている合字に関しては、すべて「トキ」・「トモ」・「コト」・「シテ」と開いた3底本の反復記号は「ヽ」であるが、これを「ヽ」・「々」・とした4漢字の振り仮名(ルビ)は、底本は片仮名で付す翻字にあたっては、底本に付す振り仮名は片仮名で付し、左訓については当該語の下にをつけて示したなお、難読と思われる漢字については、私に平仮名・現代仮名遣いで付した五その他1底本は連続する漢字文字に「レ点・一・二点」を付す場合もあるが、当時の慣用として付していない場合が多い原則底本通りとしたが、一部で付しながら、一部を略する場合がある際には、私に訓点を施し、その場合はをつけた2底本に衍字がある場合にはその下部にアステリスクをつけた3底本で疑問に思われる表記もそのままに記し、本文の右傍に①②で示し、各話ごとにその末尾で、大洲市立図書館矢野玄道文庫本(略号「大」)、金沢大学附属図書館北条文庫本(略号「金」)との異同を示した付記翻刻を許可された東京大学史料編纂所に、深甚な謝意を表します功名咄中ノ下目録(便宜、中巻下だけの目録を付す)一月心是乗坊咄一松倉豊後守殿家老咄一平野咄一堀尾帯刀殿咄一山本文禅咄一山中鹿之助咄一原田咄一嶋津咄一水野監物殿咄一中川瀬兵衛殿咄一糟尾咄一小神野咄一桜井咄一某久弥咄一中西咄一栗原咄一岡咄一花義咄一笠間殿咄一屋中安達咄一屋中咄一蒲生忠三郎殿(同じ題で咄が二つに分けられているものには、一つ書の「一」の下に、私にを付した)一永録ママ、天正ノ比、武田信玄・上杉謙信戦ノセツ、信州方月心ト云ル禅僧、越後方是乗坊ト云シ禅僧、双方共ニ出陣シテ戦場ニ於テ組討シケルニ、彼是乗坊、月心ヲ取テ押ヱ、脇指ヲ抜テ首ヲントセシカ、見レハ月心、鎧ノ上ニ掛落クワラヲ掛タリ故ニ是乗坊、「汝禅ニ非スヤ」ト云ハ、月心「月ヲ見テ指ヲサスコトナカレ」ト答其時是乗坊、「剣刃上ノ一勺ハ如何」ト問月心「江蘆一天ノ雪」ト答又「解ノ後ハイカン」ト問ハ、「雨霰雪ヤ氷ト隔ツレト解レバ、同シ谷川ノ水」ト読シ依之、助テ互ニ引退シト云々50(50)誠ニ、出家道ニハヤサシキ心繰バセ也覚有死生ノ境ニ臨テモ、少シモ恐懼ノ心ナク不為(二)動転(一)、吾常々修行セシ法問ヲ説破セシ所、如何ナル武士ニモ劣ル間敷者也去バ、軍陣ニテ鎧ノ上ニ掛落ヲ掛タル武士ニテハ、身ノ毛ヨタツテ怖敷思ト云昔物モ有其故ハ、参覚ヲ仕テ掛落ヲ被免程ノ者ハ、第一生死ヲ放ル道理有ニ依テ、死ヲ不苦故ニ、不為臆不(レ)為動転此故ニ剛強也此謂然ハトテ、掛落計ニ可恐ニハ非ズ掛落ハ形也武士タル者、半死ヲ放テ討死スルコト、誰ニカ劣リナンヤ去ハ、唐土ニ魯国ト云州有或時、魯君ヘ荘子ト云人被参ケル時、「魯国ニハ儒者多シ其故ハ過半儒服ヲ着タリ」ト宣フ其時荘子曰、「左有ハ国中儒徳ナクシテ儒服ヲ着シタル者ヲハ、忽ニ可被為誅由被仰付テ見給ヘ」ト云ヘハ、魯君「最」ト同シ給ヒ、其趣ヲ国中ヘ触給ヒ、其後一両日ヲ経テ国中ヲ改テ見給ヒケルニ、儒服ヲ不改シテ着タル者ハ、一両人ナラテハナカリシトカヤ是ヲ以テ形ニ泥ナツムコトナカレト云コトヲ可知扨又、是棄坊ガ月心ヲ助シコト、出家ニハ左モ可有武士ニハ忠少シト云ヘシ其故ハ、公儀ヲ軽クシ自ノ愛ニ依テ敵ヲ助ルコトハ、忠少シト云ヘリ最此所了得仕結ママ①ヘ①結給(大・金)一寛永十四丁丑歳、肥前嶋原一揆ノ時分、松倉長門守殿ハ江戸留守ニテ有シ家老ニ田中宗鉄・岡本新兵衛・多賀主水ト云テ三人有シニ、一揆ノ奴原嶋原ノ城エ押寄ケルニ、岡本新兵衛ハ追手口ヲ請取、多賀主水ハ手ヲ請取、田中宗鉄ハ一ノ年老ナレバ、本城ヲ請取テ在シニ、家中ノ者共、妻子ヲ不残本城ヘ執入我ハ城ノ土橋ニ居テ櫓やぐら門ヲ指塞、蝦エヒヲヲロシ、鉾ヲ取テ宗鉄諸人ニ謂ケル様、「喩追手ヲ破①責破タリトモ、二度本城ヱトテハ不可入」ト云テ、鉾ヲ堀ヘ投入ケルト云リ扨本城ノ虎口こぐちニハ石火矢ヲ数多仕懸テ、若一揆責入ハ可討払支度也扨又、家中ノ面々家ヲ明テ、妻子共本城ヘ入ケル侭、若野心ノ者有テ「火ヲ付ルコトモヤ」ト云テ、時②拾余人ニ仰テ、家中ノ家々ヲ見廻セケルニ、如案家中ノ若党、或家ノ納戸ニ入テ、燧ヒウチニテ焼付ケル所ヲ見出テ、則討捨ニ仕タリトカヤ岡本新兵衛ハ追手口ニ有テ下知仕ケルニ、一揆烈ク責寄門ノ扉ヲ斧ニテ切破、其破ヨリ一揆ノ者共二、三人匍ハイ入ケル所ヲ、ニテ突殺ケルト云ヘリ其時、若キ者共、新兵衛ニ向テ云ケル様、「郷人共ニカヤウニ被責付侍ルコト、余ニ無念千万ニ存ル所也願ハ門ヲ被開侍レ罷出一揆ノ奴原一々ニ責付侍ルヘシ」ト云ケレトモ、不及返事居タリケルニ、若キ者共達テ右ノ意趣ヲ云ケレハ、新兵衛、「扨ハ我等ノ下知ヲ聞給フ間敷左有ハ分別有」ト云タリケレハ、若キ者トモ云ケレ③ハ「可漏御下知アラサレトモ、郷人共ニ被責付侍ルコト余ニ無念ニ侍ル侭、覚ハ申侍ル」ト云ハ、「左有ハ我等ノ下知ヲ御待候」ト云テ、櫓ヨリ二拾目、三拾目、五拾目計ノ鉄炮ヲテ、一揆ノ奴原ヲ討スクメケル故ニ、是ニ易シテ少引色ニ成ケル所ヲ、新兵衛見澄シテ、侍共ニ向テ云ケルヤウ、「時分ハ善シ併永追ハ必無用也永追仕給ハヽ、門ヲ閉テ各ヲバ捨殺侍ルソ夫ヲ恨給フナ」ト云テ、門ヲ開テ追払扨一町余追テ、早々引入ケルト也其後ハ、堅ク城ヲ守テ不出、一揆共ハ以前ニコリテ不寄ト也然ルニ、肥後国細川越中守殿、近国也ケルニ依テ加勢ヲ乞、「此城ヲ預置以手勢一揆共ヲ不残討執ヘキ」由議定仕ケレトモ、細川殿ノ家老共返事ニハ、「公儀ヨリ無御下知シテ兵ヲ動うごかしむるルコトハ、御法度ト被仰出上ハ難成」ト也依之、手勢計ニテ兵ヲ出シテ一揆ヲ責討時、一揆指違テ城ヲ攻ハ可危コトヲ思テ、徒ニ送ママ数日ママケルト云リ細川家ノ家老ハ、豊後ニ公儀ヨリ御目代両人御在ヲワシケルニ、此旨ヲ相尋ケルニ、「此方ヨリ指図ハ難成其方分別次第」ト有儀也依之、加勢ヲ不遣ト云リ去間十月廿六日ヨリ極月上旬、徒ニ数日ヲ送ケルト也此間ニ一揆共有馬ノ古『功名咄』四(中巻ノ下)(51)51城ヲ拵テ楯籠ケルト云リ彼豊後ニ被居ケル御目付両人ハ、此指図悪敷ニ依テ、以後公儀ノ首尾悪カリシト云々去ハ、松倉長州ハ言語同断ノ悪人成ケレトモ、親父豊後守殿勇気甚シク、智有人ニテ御座在ケル故ニ、家老共ニハ善人ヲ持給セ④ケルト也田中宗鉄カ本城ノ門ヲ閉テ鉾ヲ堀ヘ投入テ捨ケルコト、兵一致ニシテ敵ヲ能防カセント思フ所ニ有喩ハ、大河有ニ敵地ニ軍勢ヲ渡ノ橋ヲ焼落シ、舟筏ヲ切流シテ兵ヲ死地ニ堕入テ敵ヲ防コト、古ヨリ名将ノ作略也次ニ又、地下一揆ナレバ、家中ノ僕従モ無心元ト思テ、家中ノ明家共ヲ為見廻タルコト、誠ニ、角急ニ閙敷さわがしき時分能思附タル物哉勇智兼備セルコト勿論也又、岡本新兵衛家中ノ若キ侍共カ「可討出」ト云ケルヲ制シテ不出コトハ、若一揆ノ奴原思切テ紛入、城内ニ掛火コト有ハ危カルヘシト思フ所アリ一揆ノ奴原ヲ鉄炮ニテ討スクメ、引色見ヘケル所ヲ門ヲ開追払、早々引入ケルコト功者也永追セサルモ敵ノ若返シ合ルコト、又ハ敵ノ紛キ⑤入ナンコトヲ思可ニ有誠ニ、善仕様也常々智勇ヲ嗜ズンバ覚有時ニハ当惑シテ何事モ不可出又、搦手モ烈ク責ケルト也然トモ、委ク不聞依テ不書又豊後ニ被為置タル御目付両人ノ指図、武士道不案内ト云ヘシ其故ハ、御下知ナクシテ私ニ兵ヲ不動ト云コトハ、無為・無事ノ時ノ掟也覚有珍事ニ為公儀(一)兵ヲ動スルコト、何ニ依テカ可為御法度此所ヲ分別シテ見給ヘ又、細川家ノ者共モ勇智ナキ故ト被思侍ル勇智ナキカ故ニ、事ヲ左右ニ寄タル者也其後、嶋原ノ城ヲ不出コトハ城ヨリ二・三里程モ遠キ山上ニ共数多打立テ見ケル程ニ、陣取ケルカト思ヒ、忍ノ兵ヲ以テ見届ケル所ニ、彼山上ニハ人一人モナクシテ四・五丁脇ノ渓ニ大勢集居タリ是ハ定テ彼山ニ一揆有ト見テ軍勢ヲ出ハ、指違テ城ヲ可乗取トノ計略ト案シテ不出ト也此旨一々思量仕給ヘ①破被(大・金)②時侍(大・金)③レル(金)④セヒ(大・金)⑤キレ(金)一万治三癸マ夘マ歳、堀田加賀守殿一男上野介殿、諌言ノ巻物一巻献上有テ、我居城下総ノ佐倉ヘ引籠給ケル然レトモ、公儀ニ是不祝①思召ケルニ依テ、上使ヲ被遣テスカシ出テ、上野介殿舎弟那須美濃守殿ヘ被成御預下野国那須ト云所ヘ被超ケル夫ヨリ又、舎弟脇坂中務少輔殿ヘ被成(二)御預(一)、信州飯田ヘ移給ヒシ然ニ、其前方上野介殿、平野権平殿対談ノ節、遠州ノ御一族在ハ一人御越候ヘ可召抱ト也依之、故遠州ノ舎弟平野弥二右衛門長子細川氏ニ勤仕シテ、九州肥後ニ在リ其子ニ助五郎ト云テ、生年十五才ニ成ケルヲ契約シテ呼上セケル折節、上野介殿如右ノ様子ニテ佐倉ヘ引籠給フ由ヲ、彼助五郎摂州大坂ニテ聞ヌ其節、平野権平殿、和州ノ知行所ニ居給フ故、彼地ニ行向テ権平殿宣ケルハ「扨々不仕合者哉無是非、是ヨリ肥後ニ被下」ト也其時、助五郎云ヤウ、「我等儀未タ御目見ヘヲモ不仕ト云ヘトモ、最早主従ノ契約ヲ仕タル上ハ左様ニハ難成関東ニ下テ御用ニ無之ハ、各別御草履取ニ成トモ御奉公可仕」ト云権平殿聞給ヒテ、「不謂コトヲ云物哉是ヨリ直ニ筑紫ヘ被下侍レ」ト也助五郎云ヤウ、「何ト被成御意候テモ、一旦是参タリ御草履取也トモ被仰付侍レト不云シテ、肥後ヘ罷下リ侍ルコトハ非武本意」ト云権平殿宣ヒケルハ、「世忰ノ不云コトソ②云モノ哉我等次第ニシテ筑紫ヘ下リ候ヘ流人ニ被仰付タル人ヘ奉公人ヲ肝コト御公儀ヘ対シ悪シ是非関東ヘ下リ侍ハ我等ハ義絶也」ト宣ヒケレトモ、不聞シテ江戸ヘ下リヌ扨、御本衆ニ何某殿トテ親類ノ有ケルニ此旨ヲ云ケレバ、此人モ一旦ハ留給ヒケレトモ、助五郎達テ道理ヲ云ケレバ、如何ニモ最至極也左有ハ御横目衆ヘ可添書状ト有テ、信州飯田ヘ被遣然ルニ、飯田入口ニ番所有テ不入其時助五郎番ノ侍ニ向テ云ヤウ、「我等儀ハ平野助五郎ト申テ覚有者ニテ侍ルカ、上野介様ヘ被仰上、御草履取ニ成トモ被召置侍ハ御奉公可仕」ト云番ノ侍共此旨ヲ聞テ感涙ヲ流テ、「扨々可申入様モ無之御心底哉上野介様エ52(52)ハ委細ニ可申達間、先御帰侍」ト云トモ不帰「其御返事ヲ不聞シテハ不帰シ」ト云「近所ニテ宿ヲ可借」ト云ヘトモ、「惣別法度也」ト云テ宿ヲ不借依之、番所ノ侍ヲ頼、「宿ヲ被(二)仰付被下侍レ」ト云ヘトモ、「此方ヨリ云付ルコトハ不成」ト云助五郎云ヤウ、「左有ハ御返シヲ承ル内ハ御番所ノ軒ノ下ニ成トモ可罷在」ト云テ不去依之、番ノ侍共モ其志ヲ感信シテ、則上野介殿ヘ此旨通達ス上野介殿、其志ヲ感給フ乍去、配所ノ人数極リヌ唯今在シ者ヲ放シテ、其方ヲ召遣コトモ難成間、此所ヲ了簡シテ被帰侍レト也助五郎此旨ヲ聞テ、「此上ハ兎角ヲ非可申上」ト云テ帰去ヌ其後、程ヲヘテ本多下総守殿、此段ヲ被(レ)及聞召知行二百石ニテ被召出ヌ其後、次第ニ立身シテ其名ヲ改テ平野勘ケ由ト名乗テ、宣シキ役儀ヲ相勤ケルト云々誠以、上野介殿若サニ其時節ト不計諌言仕給ヒシニ依テ、其節ハ偏ニ狂人ノ取沙汰ニ成ケレトモ、以後公儀ノ御仕置等改給ヒシコトトモ多カリシト云リ然ハ、一円ニ道理ナキ儀ニモ非ト云コトヲ知ヘシ又、平野助五郎カコト、未若輩成者ノ奇特千万成心操バセ③ト云ヘシ其身ハ不及申親ノ心底奥深ク被思侍ル人ノ父トシテハ第一以教慈トス我家ノ道ヲ不教シテ、其身ノ心侭ニ養育スルコトヲ姑息ノ愛ト云テ、午ノ子ヲ育ヌルニ喩タトヘテ儒道ニ嫌コト最也助五郎ガ義ヲ立タルニ依テ、親父義理深被思侍ル又、権平殿留給ヒシコトハ、公儀ヲ重ク被存所也依之、一入助五郎カ義理強ク聞侍ル人ハ、難ニ不ハ其善悪難顕ト云シコト、是也誰々モ如此義ヲ守テ、主人エ可為勤仕コト勿論也此旨思量仕給ヘ①祝三本共に「不祝」だが、「よろこばず」と読むべきか②ソヲ(大・金)③バセハセ(大)、金はルビなし一関ヶ原合戦ノ最初、水野惣兵衛殿ハ参州加里屋ニ居住仕給フ然ルニ、堀尾帯刀殿ト諸事可(レ)有評儀由ニテ、尾州池鯉鮒ニテ出会給フニ、又其比牢人者ニ加々野柄弥八ト云者アリ此者モ常々権現様被掛御目者也ケレバ、帯刀殿、弥八ヲモ同道有テ惣兵衛殿ト諸事可為評定トテ被為参会ケルニ、其夜ニ入テ弥八刀ヲ抜テ、惣兵衛殿ヲ切ル帯刀殿モ抜合テ戦給フト云トモ、数ヶ所手ヲ負給フ所ニ、惣兵衛殿家頼共勝手ヨリ出合ケル侭、帯刀殿燈ヲ消、壁ニ添テ立隠テ亡難ヲ避給フ其内ニ弥八ヲハ惣兵衛殿家頼共討取死タリ其時帯刀殿、惣兵ヲハ加々野柄弥八ガ討ヌ火ヲ為出ト呼ハル則火ヲ出シケル帯刀殿ニ数ヶ所手負給フヲ、帯刀殿ノ僕従トモ肩ニ掛テ旅宿ニ帰リケルニ、道ニテ帯刀殿宣ヒケルハ、「弥八カ懐ニ鼻紙袋ヤウノ物有ベシ取テ参ルヘシ」ト也則取テ来リヌ如案弥八カ鼻紙袋ノ内ニ石田治部少方ヨリノ書状アリ其状ニ曰、「水野惣兵衛・堀尾帯刀両人ノ内計①テ西方ヘ来ハ、知行一万石可給」由也依之、加々野柄弥八カ討シコト為不云分明也ト云々誠ニ此帯刀殿数ヶ所手負給フテ、僕従ノ肩ニ被掛ナカラ、能思出給フ物哉無勇智被思出マジ帯刀殿、加々野柄ヲ同道有シニ依テ、以ゆえニ権現様可有(二)御疑コトヲ思出給フコト神妙也又、壁ニ添テ亡難ヲ給ヒシコトハ、元来帯刀殿、織田信長公ノ忍ノ者ニテ有シト也其時分、或城郭ヱ忍入ケルトテ、堀ヲ越ケル時、城内ヨリ猿②火ヲ下ヲロシテ見ケルニ、堀底ニ有藻ヲ首ニ被カツキテ隠居テ、給③ニハ忍入ケルニ依テ、堀尾茂助トハ名付ラレタリト云リ其故ニ、此時モ隠兵ノ術ヲハ出④フト云リ①計討(大・金)②猿火この語未詳大は悵火、金は火③給終(大・金)④給(大・金)一堀尾帯刀殿、関ヶ原合戦以後、雲州一国拝領有テ後、山本文禅ト云者アリ此者牢人ニテ有シカ、元来山中鹿之助カ家頼ニテ、数度ノ覚有武功ノ者ナル由ヲ被及聞召則彼①召出タリ扨、『功名咄』四(中巻ノ下)(53)53或夜帯刀殿、彼文禅ヲ御前ヘ被召、山中鹿之助ガ剛強ナル働共被語聞カント所望仕給ヲ、文禅カ云、「鹿之助カ働、殿様ナトノヤウナル御武功勝タル御前ニテ語リ申ヤウナル儀ニテ不侍」ト卑ヒ下ゲシテ終ニ不語ト云リ其座ノ興ヲ覚ヌル躰也扨、後日ニ近習ノ者彼文禅ニテ云ヤウ、「何トシテ先日ハ彼アレ程ニ御所望有シニ語給ハヌゾ不審ニ侍ル」ト云ヘハ、文禅カ云ク「去ハトヨ、山中鹿之助ハ剛強第一ノ者也トハ云トモ、我古主ナカラ死際悪シクシテ犬死同前ノ儀也人ハ死期ヲ以テ第一トス故ニ不語」ト云シ此故ニ文禅ヲ弥深ミ思ヒケルト云々誠ニ此文禅カ云シ如ク、人ハ第一ニ死期ヲ大事トス去ハ、斎藤別当実盛ハ不心成富士川ヨリ逃登ケルコトヲ恥テ、北国篠原ニ於テ討死仕タリケレバ、誰カ富士川ニテ臆シタリト云ヤ去ハ、山中鹿之助ガ武功ヲ最初ヨリ謂続ヌル時「扨死期ハ如何」ト尋給フニ、不語ト云コトモ成間敷若又語続ル時ハ、初語シ功ハ皆水ニ成ス②ヘシ左有バ、不語ニハ不然ト思所最也此文禅ハ数度ノ武功有シ上智有兵ナレハ、者ノ頭ニモ成ヌベシ然ハ、武ノ内ノ重宝也此旨思量仕給ヘ①彼被(大・金)②スヌ(大・金)一山中鹿之助ト云者ハ、尼子ノ晴久ノ家臣ニテ剛強ナルコト近国ニ無隠然ルニ、安芸ノ毛利元就ヨリ以謀被招ケルニ依テ、主ノ晴久ヲ殺テ安芸ニ趣ク元就ヨリ殊之外被為馳走ケルニ、其馳走人ニ岡筑前ト云者ヲ被付ケル此筑前モ数度ノ場数有武士也然トモ、此筑前小兵者ナリケルヲ、鹿之助ガ云ヤウ、「去ハ、聞ト見トハ違物也岡筑前殿ト云テ数度武功有由、他国ニテ聞及シ時ハ、定テ大兵ニテ可有ト思タリ然ルニ今見侍ハ無左」ト云ケレハ、筑前ガ云ク、「去ハコソ聞ト見トハ違侍ル剛強第一ト聞シ鹿之助殿ナトノ、今如此主ノ晴久ヲ奉殺可被為降参トハ不思シ」ト云ケレハ、鹿之助聞之テ涙ヲ流シケルト云リ其外ニモ、諸事不心行思フ事耳多カリケレハ、上方ヘト志シテ登ケルニ、毛利家ヨリ馳走顔ニテモテナシ、道々人ヲ付テ上セ給フ内ニ、備中国川辺川ト云船渡ニテ、馳走人鹿之助家来共ヲ先ヘ渡ケル内、鹿之助ハ狭箱ニ腰ヲ掛テ在シニ、馳走人、僕従共ヲ渡シテ戻船ノ時、川岸四、五間程ニテ取脱はずしタル躰ニテ船ヨリ落ル人々「ヤレ」ト云時、鹿之助ガ居タリケル近辺ノ川岸ニ匍ハイ上ル人々、「刀脇指ニ可水入」ト云バ「如何ニモ」ト云テ刀ヲ抜テ、其侭其刀ニテ鹿之助ヲ討タリト云リ又一説ニハ、渡船ノ馳走人「其船侍候ヘ」ト云テ、編笠ヲ以テ招キケルニ、鹿之助モ向ノ船ニ心ヲ移シテイタル所ヲ、脇指ヲ抜テ鹿之助カ右之腕ヲ打落ケル鹿之助剛強也ト云トモ、利キヽ腕ヲ打落サレタルニ依テ、何ノ無造作被討ケルト云々去ハ、大兵ノ者、小兵ナル者ヲあなどりテ不覚仕ヌル様タメシ多シ然トモ、岡筑前カ云分モ善ニハ非ズ其故ハ、主人ノ馳走有人ヲ覚恥シメヌルコト忠少シト云ヘシ扨又、此鹿之助、毛利家ヨリ謀略ヲ以テ被計ケルニ迷テ、主ノ晴久ヲ奉殺シコトヲ、今此筑前ニ被恥テ礑はたト行当後悔セシニ依テ、不覚涙ヲ流セシト見ヘタリ去ハ、主人如何ニ積悪ノ人也トモ云ヘ、対主君為敵コトナカレ有恨時ハ、所ヲ去ヲンヨ又ハ、出家世コソカヤウノ時能所ナルベシ古今主人ニ有恨者、任血気害生一生ノ間恨思ヒ、其子孫ニ其積悪ノ名ヲ伝ヘ、面ヲ穢コト、如何ニ其身ニハ悔シク悲カルラン此鹿之助モ常々剛強第一ノ者ナレハ、定テ一旦ノ迷ト血気ニテコソ晴久ヲバ殺ケシテ、今此時ニ至ハ、腹ヲ寸々ニ被断思ヒナラメ去ハ、一生不善ニシテハ活イキテモ無益、面白カラズト大丈夫心ヲ発シ給ヘ又、鹿之助ヲ討シ者ノ武略ハ、両説トモニ能仕様ト云ヘシ覚有剛強ナル者ヲ討ニハ、何ニテモ其便ヲ求テ討コト最也軍タチニ九死一生ノ戦ヲスルニモ、先謀、戦コトヲ後ニスト云リ54(54)一延宝ノ初ノ比、越後村上ノ城主、原弐部少殿家老ニ、原田権右衛門ト云人有年七十余才也ト云トモ、常ニ若キ者共ト立交テヲ稽古仕ケル夫故、モ能遣覚給ヒシ然ルニ、或者云ヤウ、「最早御年モ善シモ能遣給ヘバ、今ヨリ養老楽ヲモ仕給ヘカシ」ト云バ、権右衛門カ云ヤウ、「吾ヲ稽古スレトモ、全クヲ仕上ヘキト思フ心入ニテモナシ年老ヌレハ自ラ行歩モ不自由ニ、身力モ弱リヌ如此稽古ヲスレバ、自ラ身モ達者ニ成、五丁・十丁ノ道ヲ行ニ不労此故ニ常ニ不絶稽古ヲ仕侍ル」ト云リ依之、原ノ家中面々思ヤウ、「諸人武芸ニ怠リ有ニ依テ、覚仕給フ者ナラン」ト云テ、老若共ニ武芸ニ精ヲ出シケルト云々誠ニ、此権左ママ衛門ト云人ハ智勇有人ト見ヘタリ去ハ、世ノ中ノ愚ナル、又ハ勇力ナキ男、安楽ヲ好テ徒ニ身ヲ置コトヲ宗トス武ノ家ニ生レン者、何ソ楽ヲ好テ徒ニ身ヲ置、武ノ道ヲ忘テ有ランヤ武ノ道ヲ忘テ万一珍事出来ン時、万代不易ノ其名字ニ汚名ヲ残コト何ソ武ノ本意ナラン去ハ、尾州小野沢五郎兵衛ト云人モ、年老給フテ後モ常々馬ヲ責給ヒシニ依テ、若キ者共ノ云ク、「年老給ヒテ不被謂コト也若キ者ニ為乗給ヘカシ」ト云ケレハ、五郎兵衛被云ケルハ「全ク其理ニ非ス常ニ馬ヲ不乗ハ、偶タマ乗ヌル時、胯モヽスクミテ行歩不自由ナル者也」ト云テ、不絶馬ヲ責給フト云リ名ヲ得タル人ハ、如此割符ヲ合スルカ如ク也武ノ家ニ生レン者、日夜旦暮ニ身心ヲ責テ以テ善トス安楽ヲ求好ヲ以テ愚トス出家モ又然ル也ト云ヘリ殊更人ノ官ツカサタラン者ハ、諸人ノ手本共成者ナレハ、武ノ道ニ不怠、武芸ヲ好ム時ハ、此原田カ如ク忠モ自ラ其内ニ備ヘキ者也此旨思量仕給ヘ一永禄・元亀・天正ノ比、九州摩武士ニ嶋津武蔵ト云者アリ此者ハ数度有武功者也ト云リ然ルニ或時、嶋津方討負テ敗軍仕ケル諸人、「武蔵殿、何ト返シ給ハスカ」ト云ケレバ、「イヤ爰ハ可為返所ニ非ス退給」ト云テ、広野ノ内ハ混ひた引びきニ引退ケル程ニ、六丁一里ノ道ヲ五・六里退テ畷なわて道みちヲ過テ橋ノ有ケル所ニテ、「爰コソ善所ナレ」ト云テ、踏留テ退ノヒテ来ル軍勢ヲバ通シ、追テ来ル敵ヲ待受テ「嶋津武蔵」ト名乗テヲ入ル是ヲ見テ勇気有兵共取テ返シケル程ニ、又二・三里カ程追討ニ仕タリト云々誠ニ、此武蔵功者ト云ヘキ者若広野ニテ返ス時ハ、味方負軍ナレバ敵我後ロヘ廻テ不為討死ト云コト有ヘカラス去ハ、敵モ最早永追シテ追労タル比ナレバ、無左共追捨テ可引返気ニ成ヌ其上、畷道ニテ不成大勢一騎打ニ成来ル所也去ハ、兵書ニモ「帰ル気ヲ討」ト云口伝ニ能叶者覚有道理ヲ知テモ無勇不可思出無智不可知智勇兼備セルコト勿論也其上、常々兵法ヲモ仕覚、喩ハ敵大勢ノ中ヘ一人馳入テモ、タヤスク不被(レ)討ヤウニ嗜テコソ、如此大功ヲハ達スヘケレ常々怠リニテ暮シナハ、如武蔵知図返シタリトモ可為討死ナレバ、大功ヲハ難達去ハ、常々兵法ニ達シテ覚有時討死ト思定テ懸入テコソ、実死一生ノ内ニ大功ヲハ達スル者ナレ此旨能々勘弁仕給ヘ一明暦三丁酉歳正月十九日・廿日両日、江戸中悉ク焼失ス人拾万余人焼死トハ云トモ、是ハ町方計ノコト、「諸大名屋敷ニテ焼死ケルヲハ外聞悪敷」ト云テ、隠密セラレケルニ依テ、不知ト也御城モ不残焼失故公方様ニハ西ノ丸ヘ被為成御渡ケル然ニ、常々御普代衆諸方門々ヲ堅メケル役所有ケルニ、何モ遅参也トテ、同廿一日ニ彼面々ヲ西ノ丸ヘ被召ケルニ、水野監物殿ハ、方々親キ方ヘ被見回ケルニ依テ、遅カリシニ、松平伊豆守殿、「監ハ後ニモ被仰渡侍レ」トテ、御老中列座ニテ被仰出ケルハ、「今度大火事ニテ有之候所ニ、面々請取ノ場ヘ遅参ノ段、近比不届被思召間、以後覚有儀有時被致遅参侍ハ、遠嶋ニモ可被仰付旨上意也其段被相心得侍レ」ト也何モ「謹テ奉得(二)『功名咄』四(中巻ノ下)(55)55其意(一)」由ヲ申上ル然ル所ニ、監物殿モ着座仕給フ伊豆守殿ハ少心易枢機有ケルニ依テ、「何方ヘ被参タルゾ是程ニ待兼最早何モヘハ上意ノ趣申渡侍リヌ」ト宣フ監物殿、「扨如何様ナル儀ニテカ侍ル」ト云ハ、右ノ趣ヲ被仰出ケル堅物殿傍ヘ向テ、「扱①如何様ニカ御請ヲハ被仰上侍シ」ト云ハ、伊豆守殿アザ笑テ、「監ハ扨如何云ヘキトカ被思侍ル」ト宣フ其時監物被申ケルハ、「上意ノ趣、先以奉畏侍ヌ併我等ノ存寄候トハ各別ノ議也我等常ニモ又今度モ家来トモニ申付侍ルハ、必々急侍ルナ」ト云テ、屋敷ニテ兵狼ヲモ為遣候ヒテ、「腰兵糧ヲ持タルカ」ト鑿仕リ、「扨下々皆侍ルカ」ト云テ、皆テ後、馬ニ乗テ罷出ニモ、「静ニ々」ト下知仕テ、馬ヲ引留々乗テ罷越侍ル其故ハ、唯今ニモ何コトモ侍ハト存知、不労ヤウニト存侍ル問②、向後トテモ遅コト侍ルヘシ」ト云ハ、御老中モ兎角ノ儀ヲ不宣最前御請申シ人々モ是ヲ「最」ト存ラルヽ顔色也此故ニ、何モ見合テ退出スト云々誠此監物殿ハ、常々軍術ヲモ知了仕、心掛好人也ト云リ其上智勇有人ニテコソ有ケメ覚有時節モ其趣ヲ潔ヨク被云ケルコト、時ニ執テノ高名也去ハ兵書ニ、「備ハ門ヲ出ルヨリ敵ヲ見ガ如クス」ト云リ此備ト云ハ、常々ノ嗜ヲ云ト也刀脇指ヲ様わきテ思ヤウニ拵テ指モ備也其外、ヲ稽古シ、弓ヲ射習、鉄炮ヲ打、武具ヲ調置、皆以テ備也門トハ武家ニ生出ルコトヲ云也武門ニ生シ者、此旨思量仕給ヘ①扱扨(大・金)②問間(大・金)一元亀・天正ノ比、織田信長公ノ幕下ニ羽柴筑前守殿、摂州退治仕給フニ、摂州木ノ城主ニ和田ノ何某ト云者有此人常ニ月毛ノ馬ヲ秘蔵シテ持ケルヲ、スワウト云物ヲシテ常ニ湯洗ヲ仕テ赤ク染タリ故ニ世人、其時分和多カ染月毛ト云ケルト也然ルニ筑前守殿ト毎度戦給フニ、或時、筑前守殿侍共之常ニ誥つめテ居ケル座敷ニ、「明日ノ合戦ニ和多ヲ討取タラン者ニハ知行千石宛行ヘシ」ト云張紙ヲ仕テ置給ヒシヲ、諸人是ヲ見テ「明日誰カ討取ヘキ」ト云テ見居タル所ニ、中川瀬兵衛ト云人、其比知行二百石計執テ居給ヒケルカ、是ヲミテ其侭引メクリ取給ヒケレハ、「是ハ如何ニ」ト諸人云ケルニ、瀬丘被云ケルハ、「明日我ナラデ和田ガ首ヲ可執者ヲ不覚」ト被云ケルト也其時諸人私語ケルハ「扨々笑おか敷しきコト哉瀬兵衛ガ分トシテ彼ノ多勢ヲ持タル和田ヲタヤスク可討取イワレナシ」ト云テ、目口ヲ引テ笑私語ケルト也然所、瀬丘①明ル日未明ニ具足ヲバ態ト不為着、足軽ノ着ル羽織ヲ着シ、鉄炮一挺持テ、喜四郎殿ト云ケル舎弟一人召具シ、毎モ敵人数ヲ押来ケル野原、井溝ノ内ニ匍入、柳ノ木陰ニ隠居テ相待ケル所ニ、和田ハ如毎彼染月毛ニ打乗テ、軍勢ヨリ一・二町先立テ輪ヲ乗廻シ々々押来ル所ヲ、近々ト待受、鉄炮ニテ討落ス其時、舎弟ノ喜四郎走出テ首ヲ捕ル敵ノ軍勢是ヲミテ、不及合戦敗軍仕タリトカヤ是ヨリ瀬兵衛殿次第ニ立身仕給ヌ其後、明智日向守逆ノ時分、於山崎大功ヲ顕シヌ其後、江州志津岳ノ合戦ノ時分、於柳瀬討死仕給ヒケルト云リ然トモ、此功ニ依テ干今其子孫中川山城守殿ト云テ、豊後岡ニテ七万石ノ領主タリ此瀬兵衛殿中川家ノ元祖也ト云々誠ニ此瀬兵衛殿剛強ナル人トミヘタリ然トモ、無智シテ覚有大功ヲバ難遂カラン者其故ハ、敵ノ和田ガ常ニ深②月毛ニ乗テ軍勢ニ先達テ来ヲ見テ、我覚仕テ討取ンモノヲト思テイ給ヒケル故ニ、張紙ヲミルト被執タル者ナラン是智謀ニ非スヤ去ハ、筑前守殿モ此道理ヲ見付給フニ依テ、家来ノ侍共ノ智ヲ引見給シ③ガ為ニ、張紙ヲハ仕給ヒツラン者又、具足ヲ不着給コトハ、身軽ニ掛引ヲセン為也以後、柳瀬ニ於テ討死仕給フコトハ、敵猛勢ナレハトテ落散スルハ武ノ道ニ非ス近キ味方ノ不為助力シテ討死セシハ不及是非所也此旨思量仕給ヘ①丘兵(金)②深染(大・金)③シン(大・金)56(56)一元和・寛永ノ比、蜷川山城守殿家頼ニ、糟尾治部左衛門ト云者有此者或時、下総国日光今市ト云所ヘ行テ、不慮ニ喧ヲ仕出タリ然ルニ、相手方ヘ与力スル者拾三人有シニ、治部左衛門、元来不敵ナル男ニテ少シモ不動、刀ヲ抜テ会尺アイシライテ五・六間引退ク相手ノ者共恐懼シテ退クソト心得テ、勇ンテ一人掛来ル所ヲ出向テ、手ノ下ニ切伏タリ又五・六間引、後エ敵ノ不廻所ニ息ヲ休メテイタリ然ルニ又、敵ノ内ニ勇気有男一人追テ来ル所ヲ、走向テ切伏タリ扨又、最前ノ如ク五・六間引退テ待イタリ敵モ是ヲ無念ニ思ケルガ、衆ニ勝レ進テ来者ヲ手ノ下ニ切倒タリ如此七人切伏タリ是ニ恐テ重テ追テ来者ナカリケレバ、治部左衛門素ヨリ道達者ニハ有、早々蜷川ニ帰リケルト云リ此治部左衛門ハ齊藤播磨ト云テ、塚原ト伝カ伯父ニ兵法ヲ伝受仕タリ其後、桜井大隅・其子櫻井大炊助両人ニモ稽古仕テ、兵法勝テ上手也シト云誠ニ、此治部左衛門、如何ニ兵法勝テ上手也ト云トモ、其機転悪ハ、覚有大勢ニハ難成カラン勇才有勝負ノ仕様ト云ヘシ如此ノ勝負ノ仕様ヲ聞テ、是ヲ最上是極セコクト思モ又悪シ時ト所ト其相手ニ分別有ヘキ者兎角ニ勇智有テ其所作ニ不疎者ニアラスンバ、如此ノ大功ハ難達カラン者此旨思量仕給ヘ一小ヲ神カ野ノ越前ト云者、兵法ノ達人也然ルニ或時、河端ニ出テ逍遙仕ケルニ、何国共知ヌ座頭坊一人、尻ヲカラゲテ河端ヲ上リ下リ混ひたト礫ヲ打ケル侭、越前不審ニ思ヒ、傍ニ立寄云ヤウ、「如何ニ座頭渡瀬ヲ尋ルカ渡瀬ハ其辺ニハナシ此方ヘ来リ侍レ」ト云ハ、座頭云ヤウ、「否イヤ、深所ヲ尋侍ル」ト云バ、越前弥不審仕テ、「深所ヲ尋テ何カ仕侍ルソ」ト問ニ、座頭ガ云ヤウ、「何ヲカ包侍ルベキ身ヲ投侍ル」ト云ハ、其時越前、「夫ハ何故ニカ身ヲ投ヌルソ」ト問ニ、「私十方檀那ヲ勧進仕リ、官ヲ可仕ト存シテ金子ヲ持テ上方ヘ登侍ル所ニ、道ニテ盗賊ニ被執ヌ是ヨリ可登ヤウモナク可帰ヤウモナシ所身ヲ投死ナンニハ不然ト存成①テ侍ル」ト云ハ、越前聞テ、「扨々不便成コト哉去ハトテ身ヲ投死モ短慮也命タニ有バ金子ハ何トソ可成間、先此方ヘ来侍レ」ト云テ連テ帰リ、行々勧進仕テ為執、上方ヘ上セケルニ、座頭カ云ヤウ、「御前ニハ兵法御数奇ト見タリ我等ノヲ伝受仕侍ルベシ先我等ト仕相ヲ仕テ見給」ト云間、越前彼座頭ト仕相ヲ仕ケルニ、何本仕テモ越前彼座頭ニハ勝コト不成故ニ、伝受仕タリ其時座頭カ云ヤウ、「此ヲ跡ニテ鍛錬仕給ハ、弥微妙有ヘシ」ト云テ登ス其後、越前此ヲ棟マ摩マシテ小神野カ一本ノト云テ秘蔵セシハ、此也ト云々去ハ、此越前、猛心計ニ非ス慈悲モ有人ト云ヘシ彼座頭ヲ助タリ故ニ不招シテ我重宝ヲ得タリ去ハ、其報ヲ為得トテ慈悲ヲヌ②ルハ、実ノ慈悲善根ニ非スト云リ昔大唐ニテ梁武帝ト云レ③帝、仏法帰依ノ帝ニテ、四百余ノ大伽藍ヲ建立仕給ヒシニ、其後、達磨大師ニ向テ「朕チンハ四百余ノ大伽藍ヲ建立仕タリ是大キナル功徳ニ非スヤ」ト宣旨有シニ、達磨「無功徳」ト答給フト云リ去ハ、越前モ慈悲トモ不思、不(レ)悲慈トモ不思唯理ノ当前ニテ助タル故ニ、不求シテ重宝ヲ得タリ我モ此一本ノヲ伝授シタルニ、実ニ此物語ノ如クシテ可有ト思当所アリ去ハ、物ノ名人ト被言人ニ、偏僻ナル人ハ不可有能剛コハク能柔ニ非ンハ、物ノ上手ニモ不可至此旨了得仕給ヘ①成この文字ナシ(金)②ヌス(大・金)③レシ(大・金)一櫻井大隅カ次男、櫻井霞之助ト云者アリ是モ剣術上手也殊ニ霞カ附位ト云テ、附ルコト得物也ト云リ然ルニ此霞之助、或時野辺ヘ出ケルニ、座頭通リケルカ、堀ニ一本橋ノ掛テ有ケル所ニ行懸ケルニ、彼座頭我持タル杖ヲ彼橋ノ一方ヘ押当、是ヲ定木ト仕テ何ノ造作モナク、スラト渡越ス霞之助是ヲ見テ、「我兵法ニテ附ル時ハ、何時モ此心持成ヘシ」ト得心シテ、附位ヲ得『功名咄』四(中巻ノ下)(57)57道仕タリト云々誠ニ、其道ニ深執心有時ハ、何コトニ不寄得悟スヘキ者也去ハ、釈如来ノ見明星ノ悟ト云テ、極月八日晨アカ明ツキ明星ノ出ルヲ見給テ、悟道仕給シト聞テ、明星ノ出ヲ見計ニテハ如何シテ見性悟道成ヘケンヤ其道ニ深心ヲ掛テ修行スルトキハ、誰々モ其分々相応ニ悟有ヘシ一概ニ物ヲ心得スルコトナカレ去ハ、古語ニモ、「勤ヲ無価謂宝、慎護身ノ①謂符」トモアリ又、説ママ之語ニ、「于将雖利、不得(二)人力(一)不能自断、雖有人才不勤学問不能到聖」如此古語ニ眼ヲ付テ常ニ油断仕給フナヨ①ノの字ナシ(金)一寛永ノ比、和州郡山ニハ松平下総守殿在城也然ルニ、南都エハ其間五十町有ケルト也扨、奈良ニ薪ノ能有ケル節、郡山ノ侍共ニ見物ニ参ルコト法度ト被仰付タリ然所ニ、其比年齢十七・八計ナル家中ノ侍ノ子、見物仕度由ヲ云ケルニ、又、知行五百石取ケル若輩者、右ノ若衆ト衆道ノ因チナミ有ニ迷テ、「我見物サセンズルゾ」ト云テ、上ニ紺ノ木綿着物ヲ着セ、大脇指計ニ編笠ヲ着、両人如此シテ薪ノ能[採燈ノ為トテ奈良ノ町屋一軒ヨリ薪一把ツヽ取タルユヘ薪ノ能ト云也]為見物、猿沢ノ池ノ端ニ赴ク然ルニ又、薪ノ能ニハ衆徒ハ太刀ヲ帯、カネノアシタト云テ、歯ノ一ツアルヲハキテ立テ見物ス一乗院御門跡モ御見物也奉行中ノ坊左近殿モ警固仕給フ故、少モ無礼成コトヲセズ夫故彼者共ニモ「編笠ヲ取候ヘ」ト二・三度モ制シケレトモ、元来忍ケル故カ、忍ケレトモ実カ侍故、何共不思シテ編笠ヲ不脱、不知躰ニテ編笠ヲキテ在シニ、後ニハ警固ノ者共、其編笠打破レサ①ト怒テ来ケレハ、彼若衆脇指ニ手ヲ掛ケルヲ、「推参者打殺」ナド云テ、ハタ々ト討殺テ後ニ見ケレハ、上ニハ紺ノ木綿着物ヲ着タレトモ、下ニハシユスノ小袖ヲ着タル間、「是ハ定テ郡山侍ニテ可有」ト、興ヲ覚ケルト云リ扨、今一人ノ男ハ、何国共不知逐電ス然ルニ、彼若衆草履取、郡山ニ走帰テ、此由親ニ告タリケレハ、親モ此コトヲ聞テ兎角ノ分別ニモ不及、奈良ニ走着、警固ノ者ニ討テ掛ケル所ヲ大勢寄テ、何ノ造作モナク討伏タリ「扨是ハ大事ニ成ヘシ」ト、上ヲ下エト騒動シ、春日山ニ引籠ラントス郡山ニテハ、此コトヲ聞テ我先ニト馳着ケル其内、南條左平次ト云中小性、十文字ヲ持、歩行ニテ走行堀部安右衛門ト云者、馬ニテ直すぐやりヲ持テ馳行ケルニ、此両人不負不劣互ニ詞ヲ替シ馳行猿沢ノ池ノ端ニ馳着タルトキ、最早大形引払、一人ヲクレテ行者ヲ安右衛門突伏タリ左平次ハ法蔵院カ道具持、ニ日月ヲ画タル十文字ヲカツキ、跡ニヲクレテ行トテ木ノ枝ニ引掛、周章フタメク所ヲ突殺ヌ扨、両人首ヲ取タリ勿論十文字ヲモ分捕ニ仕タリ左平次ハ猶進ケルヲ、安右衛門年上ナル間、「深入スナ今ニ郡山ノ者共大勢可来間、跡ニ引付可働」ト云テ、折敷テ胴勢ヲ待居タリ奈良方ハ四・五千計勝負ヲ計兼テ不得進ト云リ然所ニ、一乗院御門跡ヨリ以使僧、「両人先郡山ヘ被帰侍レ喧嘩ノ儀ハ以後兎モ角モ御沙汰有ヘシ」ト被仰下ケルニ、両人云ヤウ、「武士ハ覚有時大将ノ下知ナクシテハ不引ノ法也其段郡山ヘ被仰遣侍レ」ト云テ、其場ヲ不去ト云リ其後、郡山ヨリ可罷帰由下知有ケレハ帰ヌ扨又、郡山侍共聞付次第ニ「我モ々」ト馳着ケルニ、下総守殿モ殊ノ外立腹ニテ、「中ノ坊ヲモ手柄次第ニ被討取」ナト宣ヒテ、町口出馬有ケルト也然ルニ、其名字ハ不覚、久弥ト云ケル家老一人馬ニ乗テ馳廻リ、「一人モ奈良ニ行コト不可為」トテ、使番ノ侍ヲ以奈良エ行着タル者ヲモ呼返シケリ扨、下総守殿御前ニ来テ云ヤウ、「御立腹ハ去コト也殿ノ御勢ヲ以テ奈良ヲ討破給ハンハ最いと易カルヘキナレトモ、乍去以後公儀ヨリ御咎メヲハ如何仕給フヘキ喧嘩ノコトナレハ、其相手ヲハ定テ討テ出シ侍ルヘキナレハ、御身代ニ御替有テ討破給シ②モ無益コト也是非々」ト奉留依之、郡山静リケルト云リ扨、其58(58)逐電仕タル男ノ知行五百石ヲ南條左平次ニ被下ケルト云リ又、堀部安右衛門ハ本知行二百五十石ニテ有シニ、百五十石ノ加増ニテ四百石ニ被成ケルヲ不足ニ思ヒ、以後暇ヲ乞テ立退ケルト云リ扨又「法蔵院カ被執十文字ヲ返テ給侍ハベレ」ト下総守殿ヘ訴詔申ケレハ「南條ニ可言」ト也其段左平次ニ云ケレハ、「奈良ニテノ働ノ証拠ナルニ依テ返コト不成」ト云テ、終ニ不返其以後ハ、猶以奈良ノ町ヲ遊行ニハ彼日月ヲ画タル十文字ヲ為持テ廻リケルト云リ依之、法蔵院気ノ毒ニ思ケレトモ、可為様ナシト云々誠ニ、此左平次・安右衛門カ働、時ニ相応ト云ヘシ扨又、一乗院御門跡ヨリ可引返由被仰下ケルニ「大将ノ下知ナクシテ不帰法也」ト云シコト最殊勝也権現様未元康ト奉申十九歳ノ御時ニ、今川義元ノ"}, 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"幕下ニテ尾州大高ノ城ニ楯籠給ヒシニ、大将義元桶破間ト去所ニテ討死仕給ヒ、今川方委③ク敗軍ノ由、信長公ノ方ニ水野何某ト云テ権現様母方ノ伯父也ケルカ、其人ノ方ヨリ告知セタリ然ルニ、諸人皆大高ノ城ヲ明テ参州ニ帰陳スヘキ由ヲ云ケレトモ権現様被成御意ケルハ「我伯父ナカラ敵也必定ナラハ味方ヨリ注進アルヘシ味方ヨリ不告来以前ニ落散スルコトハ、武ノ道ニ非ス」ト御意有テ去給ハズ其後、味方ヨリ注進有ケルヲ御聞届、城ヲ明テ帰陳仕給ヒシト云リ此道理ニ能叶者扨又、久弥カ諌言最至極也其比、下総守殿ハ未二十四・五才ノ殿ニテ有シト也左有ハ血気盛ニテ此コトキ有シコト最也其上、奈良ヨリノ仕方ニ依テ五日・十日過テモ如何様ニモ可成コトナレバ、緩々トコトヲハ可行者也其上、大行不顧細謹④ト云ハ、久弥カ諌言忠第一ト云ヘシ此旨一々思量仕給ヘ①サナ(大・金)②シン(大・金)③委三本とも共通するが、「悉」であるべきか④謹三本とも共通するが、「瑾」とあるべきか一近来、美作国主元祖森美作守殿、官位中将ニ経上給ヒケルニ依テ、森中将殿ト云シト也然ルニ、近習ノ侍ニ中西又右衛門ト云者有此者江戸取次役ヲ仕ケルニ、黒田筑前守殿ヨリ使者有ケルヲ取次ケルニ、中将殿「如何被思召ケン、余ノ者ヲ被召、彼口上ヲ聞テ可参」由被仰付ケル又右衛門於次間云ケルヤウ、「何玄関ヨリ爰ノ内ニテ可謂違侍為御年老給テ、耳カ聞エ給ハサル侭、無ム差サト仕タルコトヲ宣フ物哉」ト云ケル中将殿聞給ヒケレトモ、兎角ノ儀ヲ不宣、国本ヘ可参由被仰付、作州ヘ登リケル以後、於作州此又右衛門、剛勢者ノ常々油断ナキ男成ニ依テ、親キ知音者共四人ニ被仰付、「何トソ以謀可討」ト也故ニ又右衛門、常々無油断男也ケレトモ、入魂者共也ケル故ニ、吾居間ニテ物語仕ケルトテ、折節冬ノコトニテ、コタツニ火ヲ置当リケルヲ、双方ヨリ両手ヲ執テ、叩たたきテ指殺ケルト也一男ハ長刀ノヲ脱テ出ケルヲ、討留ケルト云リ又其節、中将殿ニハ他所ヘ出給ヒケルカ、中西ヲ右四人者共ニ謂付レトモ、剛強者、其上子共モ多間無心元侭、可参由被仰付、跡ヨリ侍五人被遣ケルト也此者共ハ台所口ヨリ入ケルニ、次男ヲハ台ニテ討留ケルニ、三男十三才成ケルカ奥ヨリ刀ヲ抜テ出ケルニ、各務五左衛門ト云者、討テ掛ント仕ケル所ヲ普代ノ下女、兄弟喧嘩ノ①ト心得テ、五左衛門カ後ヨリ抱付ケルヲ、モキ放サントセシ間ニ、三男右ノ肩先ヨリ乳ノ下討込タリ五左衛門ハ倒テ死ス然ルニ、若輩者故、続テモ不働刀ヲ突、「我ラノ手柄ヲ御覧アレ」ト云所ヲ、討留タリト云リ然ルニ、其年生ケル男子ヲ乳母カ懐ニ抱テ、何国トモ不知逐電仕タリ其後十三年ヲ経テ以後、中将殿遠州浜松ヲ通リ給ヒケル節、何国ヨリカ来ケン、十二・三計ナル童、中将殿ヲ駕越ニ一尺三寸有ケル脇指ヲ以テ突然トモ、中将殿運ヤ強カリケン、折節駕ノ後ヘモタレテ居給ケレハ、小袖ヲ突通シ、懐ノ鼻紙ノ間ヘ突込タリ危カリケルコトトモ也扨、其脇指ヲ突走去ケルヲ、供ノ侍トモ追カケ討留ント仕ケルニ、中将殿、「世忰也其侭可指置」②宣ヒケルニ依テ、逃去ケルト云リ扨中将殿、「吾覚かく可討ト恨ミ思フ『功名咄』四(中巻ノ下)(59)59ヘキ者ヲ不覚大形中西又右衛門カ子ニテ可有」ト宣ヒケルト也其以後ノ説ニ、被乳母カ懐ニ抱テ逃シ子也ケルカ、其後モ志ハ有ケレトモ、身不肖ニテ不叶内ニ、中将殿ハ逝去仕給ケルト云々誠ニ、此中将殿、主従ノ情ヲ知給ハヽ、何カ度モ被御聞直、又右衛門兎角可云ヤウナシ又、此又右衛門剛強者ナレハ、万一御用ニ不立兼器量也然ハ弥被掛情、将ノ謀略トモ可云去ハ、武士ハ一言ノ情ニ依テ命ヲモ捨、一言ノ恨ニ依テ心ヲ変スル様ためシ、世ニ多シ此段、中将殿ノ短慮ト云ヘシ又、中西カ事、君々タラスト云トモ、臣以テ臣タラズンハ有ヘカラスト有時ハ、先堪忍シテ、以後見苦敷思事有ハ、暇ヲ乞テ家ヲ去ンニハ不如中将殿、又右衛門ヲ討給シコトハ弥以悪レ③去ハ古語ニ、「千金ハ為軽鼡不発機」ト有時ハ、大将タル人ノ覚有少計ノ怒ヲ報給フコトハ小器ノ至也扨又、其節乳母カ懐ニ入テ逐電仕タル幼子、以後、遠州浜松ニテ中将殿ノ駕ニテ通リ給ヒケルヲ、窺寄テ駕越ニ突ケルコト、若輩者ニハ殊勝成志也大名ト云、幼雉成者、能々思入スンハ、駕ノ傍エモ難寄カラン者壮年ノ人ニハ不足トモ可云者也若輩者ニハ志ヲ達タリト可云去ハ、震旦ニ豫譲ト云者、主人ノ敵ヲネラヒケルニ、敵是ヲ聞付、却テ豫譲ヲ搦取テ己ニ成敗セントセシカ、余ニ其志ノ深切ナルヲ感信シテ「何ニテモ所望ナルコトモ有ハ可云」ト也其時豫譲云ヤウ、「何ノ所望モ不侍但御召ノ小袖一ツ申請度」由ヲ云「夫ハ何ヨリ以テ安キコト也」ト云テ為得ケレハ、辱かたじけなしトテ請取、吾懐中ヨリ小剣ヲ抜出シ、彼小袖ヲ混ひた突ニ突通シ、「最早思残スコトナシ」ト云テ、被為殺害ケルト云リ是ヲ誉テ今ノ世モ云伝侍レハ、右幼子モ志ヲハ少ハ達シタルヤウニ被思侍ル又、供ノ武士、彼世忰ヲ追駈討留ントセシヲ、中将殿、「若輩者也其侭可指置」ト宣ヒシコト、情有テ大器ニ聞侍ルアハレ此仁愛初ニ御坐有テ、又右衛門一家ノ者トモヲ助置給フ者ナラハ、剛強ノ武士ヲ数多味方ニ持給フヘキ者ヲ、残多シ去ハ、甲斐ノ信玄ノ詠歌ニ「人ハ城人ハ石垣人ハ堀情ハ味方油断剛敵」ト詠シ給ヒシコト、最トコソ被思当侍ル此旨能々勘弁仕給ヘ①ノこの字なし(金)②三本共通するが、「ト」が入るべきか③レシ(大・金)一関ヶ原御合戦以後、越前一国ヲ結城秀康ヘ被進シ節、関東ニテ其比名ヲ被知タル程ノ武士ハ、大形越前ヘ被召連ケルト也其内ニ、栗原善兵衛ト云者モ被召連テ越州ニ経歳ケルト也此者後ニ男子ニ家業ヲ譲テ其身ハ法体シ、栗原善斎ト云テ、刀脇指ヲモ不指、隠居楽人ニテ世ヲ渡リケルト也然ルニ、或時此善斉ママ、我門ニ出テ上下ヲ見居タル所ニ、喧嘩ニテ人ヲ討タルト見テ、血刀打振テ走来ル跡ヨリ四・五人「ス間敷」トテ追テ来ル善斉ハ門ノ地覆ニ立テ「誰ニテモアレ善斉カ家エ駈込カシ助ヘキ者ヲ」ト云ニ、此喧嘩仕タル者コレヲ聞テ、「真直ニ栗原カ家ニ走込ヘキ」ト志テ、彼善斉カ脇下ヲ走通ル所ヲ、善斉混ト組彼者被組テ働ク所ヲ、善斉大指ニ聢しかト付強ク組留テ、跡ヨリ追テ来ル者共ヘ渡ケルト云々誠ニ、此栗原ノ武功者也トハ為申トモ、即時ニ能謀テ組留ヌル者今思テ見ルニ、彼者ヲ跡ヨリ四・五人追駈来ル上ハ、迚モ不所也最早可難助ト思量仕テ、謀テ組留ケル者去ラハ、心利タル武士ニハ無刀也ト云トモ、不可為油断者然トモ、其身ニ不帯刀剣ヲ事ハ不為能①又寛永ノ比、一刀流ノ中興尾野次郎左衛門殿長男、尾野忠弥殿ト云シ人ハ、病気ニテ御坐在ニ敵持ニテ有シカハ、鉄骨ノ扇子一本ニテ不帯刀剣ト云リ此心ハ「吾敵持也自然不慮ニ被討ヌル時ハ、次郎右衛門カ子ナレハ兵法ニ疵ヲ附ヌルコト無本意無刀ニテ在ル者ノ被殺ヌルハ、兵法ノ疵ニ成マシ又、兵法不知者一人・二人計来ルトキハ、此扇子ニテモ被討マシ」ト被云シト云リ是ハ又最ニモ侍ル去ハ、面々ノ数奇ニハ寄コトナレトモ、吾ハ隠居仕タリトモ、腕ニ叶如ナル刀60(60)脇指ヲ一生ノ間、不可放身ト思フ所也譬ハ、出家ノ珠数、武家ノ刀剣以テ同シ此旨思量シ給ヘ①「能」の右傍下に「カ」か(底本)、ニハ(大)、ス(金)一万治・寛文ノ比、岡六兵衛ト云者、出雲ノ国主、松平出羽守殿エ新参ニ被召出ケル節、宿ニ畫①寝シテイタル所エ、人一人来六兵衛眼ヲ開見レハ、何者トハ不知、血刀提テ大息ツキテイタリ六兵衛少モ不騒、「其方ニハ誰ニテ渡リ侍ルゾ我等ハ見知不侍如何様ノ儀ニテカ、我ラ方ヘハ御出侍ルソ」ト云「結句用心セハ悪カリナン」ト思ヒ、起様ニ吾脇指ヲ足ニテ遠ク押ヤリ、起直テ問ニ、彼者云ヤウ、「我ハ何ノ何某ト申者也人ヲ討テ立退侍ル隠テ給候ヘ」ト云六兵衛云ヤウ、「左有其綴蘿ノ陰ニ御隠御坐在ヨ」ト云其時、早跡ヨリ長刀ニテ追駈来六兵衛カ門ノ内ヘ入、「是エ走込タリ可出」ト也其時、六兵衛モノヲ脱出向、「是何事ニテ侍ルソ夥敷体也如何様ノ儀ニテ侍ル」ト云ハ、「何ノ何某ト云者、人ヲ討テ是ヘ走込タリ出シ給ヘ」ト云其時、六兵衛云ヤウ、「吾ハ新参者ニテ誰ヲ誰トモ不知左ヤウニ剛儀ニテハ出スマジ」ト云其時、追手侍共、「如何ニモ最至極也出シテ給レ」ト云ハ、六兵衛、「吾新参者ナレハ誰ニヨシミモナシ好モ無之者ヲ隠シ侍ルモ不忠也」ト云テ、和睦ニテ出シヌル筈ニシテ、彼者ニモ其段云聞セ、其夜寺ニテ切腹セシ時、種々馳走仕ケルト也彼走込ケル者ハ、常々誹諧数奇ニテ有シカ、六兵衛ト終日誹諧ナト仕テ、句ノ善悪ヲ吟味シテ、日暮シケルト云ヘリ扨介かいさくヲ六兵衛ニ頼ケルニ「常々御親ミノ御知音ノ衆有ヘシ其人ニ御頼アレカシ」ト辞退シテ不為ト也彼者寺エ行ニモ六兵衛駕ノ傍ニ附テ行シ彼者辞世ヲ仕ケルカ、寺ニテ切腹ノ砌、彼是ト句ノ吟味シテ切腹セシト云ヘリ其後、六兵衛此事ヲ兎角気ノ毒ニヤ思ケン暇ヲ乞、牢人仕ケルカ、頓テ備前ノ少将殿エ在附ケルト云々誠ニ、此六兵衛モ能シタリ是程ニモ大形首尾ヲ合スル者希ナラン乍去、武士ノ本意ヲ不知ト云ヘシ去ハ、如此働ヲハ当世ノ利口者ノスル業ト可知去ハ、不知唐土我朝ニハ昔ヨリ武士タル者ノ家エ走込メル者、五逆罪ノ者ハ不知、出シヌルコトヲ恥辱トス今是ヲ思テ見侍ルニ、万一此六兵衛カ如ク人走込タル時ハ、跡ヨリ追駈来ル者ニ出向、何ト走込タリト云トモ「我等所エハ不来」ト云テ争ヘシ譬「見タリ」ト云者有共、去ハ必定走込タリトモ、武士ノ作法ナレハ一命ノ限ハ出ス間敷ニ、「素ヨリ我等所エハ不来者ヲ何トシテ可出ヤウヤ有」②云放シテ構ヘカラス自然、追手ノ者トモ、「左アラハ屋サカシセン」ト云コト有ハ、「我等所ニ不穏置、証拠ニ見セ申度コトナレトモ、走込タル者不為居モ所ヲ、剛儀ニサカサレケルト云ハ、猶以可為恥辱是モ御免有、一命ノ限ハ不可罷成近比ナル横難出来クル者哉扨々、覚有迷惑ナルコト各ニモ御了簡侍レ侍ニ恥辱ヲアタエ給ンヨリ、彼者ハ定テ何方エソ退行ナン侭、急テ追駈給ヘカシ」ト云テ、出スヘカラス万一公儀ヨリ其身ヲ召捕テ、跡ヲ闕所有テ引出シ給ハンハ不知、不可出ハト思フ所也是等誠ニ武士ニ生レタル者、横難不運ト思定テ事ヲ執行ヘキ者也武士タル者、頭ヲ被討タル者、夫程ノ痛ミニハナケレトモ、其恥辱ヲ為雪すすぐ失一命、是日本ノ武士ノ定法也走込モ是ニ等キコト也ト思量仕給ヘ但シ、覚云ハトテ一概ニハ定ヘカラス其所ヲ能々了得仕給ヘ①畫晝(大)、昼(金)②「有」の下に「ト」(金)一寛永・正保ノ比ヲヒ、堀田加賀守殿エ花義ハナキ外記ト云者ニ①新参ニ被召出タリ然ルニ外記、五・三日過テ御広間番ヲ相勤ケルニ、近所ノ大名衆ノ家来喧嘩ニテ人ヲ討テ、加賀守殿玄関エ走込タリ其時外記立向テ、「何者ニテ侍ル」ト問ニ、「吾ハ何某ノ家来ナルガ人ヲ討テ参タル隠シテ給候ヘ」ト云外記、「左有ハ小玄関ヘ廻リ給ヘ」ト云テ、陰エ引廻シ様子ヲ聞テ、吾草履取ヲ付テ、『功名咄』四(中巻ノ下)(61)61吾多門エ遣シ、則吾駕ニ乗テ、加賀守殿御城下総州佐倉ヘ遣シケル然ルニ、彼大名衆ヨリ使者ヲ以テ、「我等ノ家来人ヲ討テ参タリ被成御出被下候ヘ」ト也其時、外記出向、「左様ノ者、当屋敷エハ参不侍常々加賀守無御如在御間ト申シ、殊ニハ御近所ノ儀也何レニ隠シ置侍ルヘキ」ト云是非云々「御門エ走込侍ルト云ヘトモ、私儀ハ今朝ヨリ当番ニテ此玄関ニ罷在侍ルカ、左様ナル者ハ参不侍」ト返答ス此走込ヲ相番ノ者モ不知ト也加賀守殿ヘハ申上ケルト也此故ニ、加賀守殿屋敷ニモ其沙汰ナシ年経テコソ此様子ヲ諸人聞シト也此故ニ、加賀守殿懇ニ被召上、次第ニ立身仕テ、後ニハ御子息上野介殿御護ニ被附ケル然ルニ、上野介殿、未若年時分、何方ヘ哉覧やらん、被成御見舞ケル節、此外記モ御供ニ参ルニ、比ハ夏ニテ伊達陸奥守殿近所ノ橋ノ上ニ、伊達殿ノ歩行ノ者涼ミテイケルヲ、上野介殿先供ノ歩行ノ者突当テ、橋ノ下ヘ突落タリ然ルニ、兎角ノ沙汰ナク先エ御見舞有テ、又彼橋ヲ通帰給ハンハ、陸奥守殿ノ前ヲ通給ヒシニ、彼歩行者被突落タル意恨ヲ散セント一人出ケレハ、傍輩ノ者共是ヲ間②テ見続ントテ一人出、二人出シ程ニ、後ニハ五・六十人ニ成テ、上野介殿ノ帰ヲ待居タリ外記此段ヲ礑はたト思出シ、「御駕陸奥守殿ヘ」ト云テ、外記、伊達殿玄関ヘ行向テ、「堀田上野介ニテ侍ル御門前ヲ通リ侍ル侭、御見舞申入侍ル」ト云其比、加賀守殿全盛ノ時分ナレハ、「是何故ニカ見舞給ラン」トテ、応給ヒシ外記モ座席ヘ入テ家老ニ対面シテ、四方山ノ物語及数刻、外記云ヤウ、「扨、只今上野介是ヘ御見舞申上ル儀、別ノ儀ニ非ス今朝御近所ノ橋ヲ上野介通リ侍ル節、御家来衆ト見ヘタル仁ヲ、先供ノ者突当テ川エ落給ヒタリ其意恨ヲ散セントヤ被思ケン彼橋ニ上野介ヲ待懸テ五・六十人居給ト見ヘタリ上野介今朝召連タル者共ハ皆交代シテ、唯今一人モ不居待③屋敷ニ罷帰テ兎角ノ御相談ヲハ可仕間、先々彼衆何モ御呼入給リ候ヒカシ」ト頼ケレハ、家老ノ者驚テ「其モ不待④、扨々、上野介様エ慮外千万ナル義、悪キ奴原哉陸奥守家侍ハ安躰ナル義ハ侍シ」ト云テ侍ヲ申付、早々呼入サ⑤ルト也扨、家老ノ者云ヤウ「最早一人モ居不侍不被成気遣、被成御帰候様ニ被仰上侍」ト云ハ、外記一礼ヲ云、上野介殿御供仕テ帰ヌト云々誠、智ハ万代ノ宝トハ加様ノコトヲヤ可申此段能々腹ニ味テ勘弁シ給ヘ①ニヲ(大・金)②間聞(大・金)③待侍(大・金)④待侍(大・金)⑤サケ(大・金)一元亀・天正ノ比、常州城郡笠間ノ城主ヲハ笠間心休、其子ヲ左衛門殿ト云ケル元来宇都宮ノ幕下也[但シ、元来ハ清原氏、宇都宮ノ鹿子家也ト云リ]然ルニ、武勇達人ニテ、其比諸方ノ大名衆云合テ、同日ニ笠間ヱ責入シコトアリ然トモ、笠間ノ領分三万余石ノ内エ不入立、敵ヲ追返シケル程ノ勇功也ト云リ又笠間西筋中チウ郡クント云所ニ、増古殿ト云テ、是モ宇都宮ノ一族紀氏ニテ幕下也然ル所ニ、笠間領門毛カトケ村ト増古領飯田村・猪野村ト山ノ界目ヲ争、棒打ヨリ事発テ戦コ①トハ成ヌ②トカヤ[一此両家、宇都宮ノ家族ニテ、増古ハ続近ケレトモ、宇都宮曽依不③、増古立腹シテ、田野、山本両郷ヲ結城晴朝エ献シテ、幕下ニ属ス依之青柳肥前・舘出雲両人ヲ大将トシテ二百余人笠間ニ被遣、日夜攻戦ケルト也]①「コ」の字なし(大・金)②ヌス(大)③構(大)、なお、該割書は「金」にはナシ一其前モ数度戦テ、雌雄互ニ難分然ルニ、此ころハ五月廿五日ニ、笠間方橋本村ノ取出ヲ預ケル屋中玄番[此玄番モ数度ノ勇功有テ近国ニ名ヲアラハセシ者也ト云リ指物ハ黒地ニ白キ五輪也]、其子孫八郎ト云者、堺目ニ居セシ侍共、雑兵八百計ヲ卒シ、茶臼山ノ麓ニ矢原ノ足入ヲ前ニ当テ備タリ増古方ハ、都宮村ノ取出ヲ預ケル加藤大隅[此大隅親子共、武勇ノ誉有シ者也以後ニ、大坂秀頼公エ被召出、大坂ニ籠城シテ討死セシト云伝リ]田野村ノ取出ヲ預ケル加藤大内蔵ト云者[但シ是ハ右ノ大隅カ子也]、両人近辺62(62)ノ味方ヲ相催シテ、雑兵二千計、是モ彼足入ヲ前ニ当テ飯田村ノ畠岸ニ備タリ然ルニ、加藤カ謀ニ、兼テ茶臼山ノ後ハ岩瀬村ト云テ増古領ナレハ、相図ノ武見ヲ上ケ置笠間方本勢ツヽカハ、黄ナル吹抜ヲ振シ、本勢不続ハ赤キ吹抜ヲ出ト、兼テ約諾シテケル然ルニ笠間勢ノ跡、出家・町人為見物トテ大勢出ケルト也又増古方ヨリ時ノ計略ニ、流ヨバイ星ホシノ指物ヲ指タル武者一騎、何ノ用トモナク南ノ山鼻ヘフラト廻シケルヲ、笠間方ニハ是ヲ不審シ、疑シゲニ混ト是武者ヲ見居タル所ニ、茶臼山ニ赤吹抜ヲ出タリ此時、加藤大隅、笠間勢ノ後見物ノ中エ人ヲ廻シテ云セケルハ、「皆見物ト見ヘタリ只今合戦ヲ初侍ル怪我モ有ヘシ過あやまちシテ此方ヲ恨ヘカラズ」ト云遣シケルニ依テ、一度ニ崩テ退ケルニ、大隅ハ右ノ端ニ立、大内蔵左ノ端ニ立テ、軍勢ヲ下知仕、ヱイヤ声ヲ出シテ、彼積悪ノ地ヲ押越テ掛ケルニ、笠間方見物ノ者ノ大勢崩テ引ケルニ気ヲクレシテ、雑人共モ端々引ケルヲ、玄藩・孫八郎諸兵ヲ折敷セ、ヲハ合ケレトモ、タマリモナク被突立ケル屋中玄藩・同孫八郎、味方ヲ下知シ馬ニテ乗廻々引退ケルニ、玄藩追来ル敵ヲ三度馬ヲ入テ乗刻扨孫八郎カコトヲ無心元ヤ思ケン、尋ケレトモ不ト也然ルニ、和尚塚ト云塚ノ陰ニ仁平因幡ト云者、同源七郎ト云者、兄弟隠居テ玄藩ヲニテ突落シ、首ヲ捕ケルト云リ孫八郎ハ爰ニテ先エ退ケル故、不知之ト也孫八郎、馬ヲ乗廻々引乗ケルニ、其比根小屋ノ殿ト云、笠間殿ノ御次男十六才成給ヒケルヲ、中郡境ノ大将分ニ越給シ殿如何仕給ヒケン、馬放シ給ヒ、真中村ノ井溝ノ山際ニ有ケル中ニ、只匍ハイ廻給フカ如ニテ居給ヒケルヲ、孫八郎是ヲ見テ頓テ馬ヨリ飛テ下リ、中ニツカンテ指挙、我馬ニ奉乗、帯太刀ヲ抜テ、馬ノサンズヲ混打ニ打テ追遣ケレハ、「平次縄手」ト云テ、八・九町有ケル縄手道ヲ、真直ニ笠間ノ方ヘ退給ケルト也其①ヨリ孫八郎ハ歩立ニ成テ平次畷引退ケルニ、笠間勢爰ニテ被討者不知数也孫八郎モ希有ノ命助リ、②引退ケルト云リ然トモ、孫八郎カ功ニ依テ、根小屋ノ殿ヲ助奉リシコト莫大也依之、親ノ名ヲ御付被成、屋中玄番トソ名乗ケル然ルニ、此玄番其歳十八才也ケレハ、武功モ未イマダ敷シキ侭無心元ト云テ、江藤美濃ト云老功ノ者ヲ御越有テ、橋本ノ本城ニ居置、屋中玄番コトハ二ノ曲輪ニ被置タリ玄藩内心ニハ此コトヲ無念ニ思ヒ、故玄番カ如ク功ヲ達ンコトヲ思ヒシト也角有所ニ、笠間ノ本ニ安達大膳ト云者有此者ハ故玄番カ為ニハ甥、当玄番トハ従弟也故ニ此コトヲ共ニ無念ニヤ思ケン、訴詔ヲ仕テ、比③中郡境ニ来リヌ又、敵ノ増古殿ハ元来宇都宮ノ一家紀氏也笠間モ宇都宮ノ本ナレハ、互ニ傍輩ノ如クナル間ニテ、角有諍論出来ヌルヲ少モ構給ハセ④ルコトハ無由儀也ト恨給ヒ、田野・山本、都宮二ヶ所ノ⑤結城殿ヘ指上、結城ノ幕下ニ属シ給フ故ニ、結城ヨリ舘ノ出雲、青柳肥前、其名ヲハ不覚[中田カ]、丹後ナト云老功ノ武士ヲ大将分トシテ侍二百騎、足軽四百人、都宮ノ取出ニ籠置給フ田野ノ取出ハ水谷伊勢[法名万流斉トモ云]ト云テ、当世備中中松ノ城主水谷左京亮殿ノ先祖、雑兵二千計ニテ楯籠給フ加藤大隅・同大内蔵ハ、岩瀬村ヲ城ノ如ニ堀ヲ構テ居住スト云リ然ルニ、屋中玄番・安達大膳謀ヲ以テ、「何トソ故玄番カ弔合戦ヲ仕テ、去年ノ恥ヲ雪ント思立ケル故、謀ヲ以テ戦ニハ」ト云テ、磯辺・宮屋、中村ノ内、諏訪ノ峰ト云山奥、中村ト云在所、此三ヶ所草ヲ伏テ[○関東ニテハ伏兵ヲ草ヲ伏タルト云リ]、玄番・大膳、五月廿四日ノ朝、歩行者二百計ヲ引テ敵地ニ発向シ[此合戦、玄番十九才、大膳十八才トモ云リ又ハ大膳二十才トモ云リ不分明]、此二百計ヲモ五十人ツヽ爰ここ彼かしこニ隠ヲキ、岩瀬村近辺纔ニ拾余人召具シ、馳行ノ所ニ、二十才計ノ女ノ小角豆ヲ摘ミニ出タル所ヲ、足怪⑥二、三人ヲ遣シ、是ヲ擒ニシテ泣叫ヲ引立来ル岩瀬村ニ是ヲ聞付、二・三人駈出シケレハ、味方ハ四・五人ニ成『功名咄』四(中巻ノ下)(63)63テ引テ来ル敵追々五・六人出ケレハ、味方ハ七・八人ニ成ケル故、岩瀬村ニ早鐘ヲツイテ騒動ス都宮村ニモ早鐘ヲツイテ駈出ケレハ、敵次第ニ大勢ニ成テ雑兵二千計、我劣ラシト追駈来ル味方モ爰彼ヨリ顕出ニ、二百余人ヲ玄番・大膳少モ不乱ニ引退ケル玄番、軍勢ヲ乗廻下知シテ引ハ、大膳跡ニ馬ヲ立テ敵ニ馬ヲ不為入大膳、軍勢ヲ乗廻下知仕テ引ハ、玄番跡ニ踏留テ馬ヲ立互ニ替々如此シテ引退ケルマヽ[加藤大隅・同大内蔵親子ハ増古本ニ行]、舘出雲・青柳肥前・丹後ナト云流石ノ武功ノ者共、馬ヲ入テ駈乱シテ討セントセシカトモ、終ニ馬ヲ不為入ト云リ又、右ニ伏セシ草ハ相図ノ鉄炮ヲ三ツ打ヘシ左有、磯辺宮・諏訪ノ峰ヨリ駈出ヨト也真中村ニ伏セシ軍勢ハ此合戦ニ不構、山ヲ隔直ニ懸テ都宮ノ城ヲ可乗取ト云約諾也然ルニ、大膳・玄番、敵ノ軍勢ヲタブト引請、鉄炮ヲ打ケレトモ、草是ヲ不聞付シテ不起立、味方モ次第ニ危ク見ヘシ然トモ、両人乗廻々下知シテ少モ不乱引ケルニ、櫻川ノ末、玉影ノ橋ト云テ溝川ノ有ケル所ニ至テ、舘出雲一騎乗向テ云ヤウ、「玄番・大膳因果ト云物ハ無是非物也去年ノ今日、親玄番ヲ討取タリ其モ不替、今日其方共ヲ討取ナンコトヨ彼溝瀬ヲハ越セマジキ者ヲ」ト云ケレハ、大膳云ヤウ、「去ハコソ因果ト云者ハ無是非者也今日又日モ不替、其方共ヲ討取ヘキコトハ彼山ヲ見ヨ」ト云テ、諏訪ノ峰ヲ指ケル敵モ是ヲ無心元ヤ思ヒケン、諏訪ノ峰ノ方ヲ見ケル折節、草伏タル者共相図ノ鉄炮ハ不聞シテ在シカ、余リ時刻ノ遅カリケル侭、先ニ何ヤラン竹ヲ刻タル如クナル音ノシケル自然、鉄炮ニテヤ有ラン「闘ヲ挙テ見ヨ」トテ挙ケルカ、大膳指ケルト一度ニ、蚊ノ鳴立タル如ク挙合ケルソ冥加ナル磯辺宮ニモ、漸此闘ヲ聞付ヲ⑦トキヲ合ケル依之、敵ノ軍勢足ヲ空ニ成テ洋タヽヨヘリ此時、出雲・肥前・丹後ナド云者共、鞍立スカシ腹帯ヲシメケレハ、大膳・玄藩モ鞍立スカシ腹帯ヲシメケルト也此時、味方ノ二百余人競テ敵中ニ駈入ラントセシヲ、玄番・大膳制シテ馬ヲ乗廻々、「我々カ馬ヲ入ナンヲ相図トシテ討ヘシ」ト云テ、味方ヲ謐シツメケル然ルニ、諏訪ノ峰・磯辺ノ宮ノ軍勢、両方ヨリ近寄テ、一町五斗モヤ有ラント思フ比ころおヒ、玄番・大膳馬ヲ入テ敵ヲ竪横ニ乗刻ケル敵是ニ矢⑧途所ヲ、味方競テ追討ニセン⑨程ニ、被討者不知数ト也都宮ノ城追討ニセシニ、敵ニ一返モ不為返ト云リ其故ハ、敵ノ可返ト思ノ所ニテハ、両人馬ヲ入テ駈乱テ討シト也玄番、舘出雲ニ渡テ詞ヲ替ケレバ、出雲モ玄番モ馬ヲ乗放テ太刀打仕ケルニ、出雲ハ五十余才ノ男ナレトモ武勇ノ誉有者也ケレハ、暫戦テ玄番⑩討伏タリ首ヲハ下人ニ為持駈行ケル所ニ、去年、父玄番ヲ為討ケル弟源七郎ニ出ケル玄番、盲亀浮木ウドン花ケノ花、侍⑪得タル心地シテ馬ヨリトビ下リ、太刀打合スルト等クトビ込テ、生捕ニ仕タリ大膳ハ此戦ニ首四討捕タリト云リ都宮追誥ケレトモ、先ヘ落延タル兵⑫、其城戸ヲ閉テ防ケル故、追留ヌ又、真中村ニ伏タル軍勢ハ、相図ノ鉄炮ハ不聞、今ヤ遅シト侍居タル計ニテ、終ニ此戦ヲ不知シテ不起立ケレハ、都宮ノ城不乗取コト、残多シト也去ハ、其日ハ取分ヶ朝霧ノ深カリシ故ニヤ、鉄炮不聞ト云リ源七郎ヲハ玄番宿所ニ帰テ首ヲ刎ケルト云リ是ヲ小角豆摘ノ戦ト云リ①其夫(金)②漸(金)③比此(大・金)④セサ(大・金)⑤ノヲ(大・金)⑥怪軽(金)⑦ヲテ(大・金)⑧矢失(大・金)⑨三本とも共通するが、「シ」とあるべきか⑩漸(金)⑪侍三本とも「侍」だが「待」とあるべき処か⑫兵大・金とも「兵」の下に「共」がつくそのかわり次の「其」が共にない一或時、安達大膳・屋中玄番、味方軍勢雑兵七百計ヲ卒シテ、敵ノ領分飯田村ヲ越テ猪野村ニ趣ヲ、敵軍モ雑兵千計ニテ出向、互ニ誥寄、己ニ一戦ヲ初メントセシ所ニ、敵ノ後ノ山越ニ都宮ノ方ヲ64(64)見レハ、敵二千計ノ軍勢ニテ押来ル其時、大膳、玄番ニ向テ云ヤウ、「アレ見給ヘ敵軍後ヨリ大勢ニテ押来ル一戦遅々シテ後ノ敵軍一所ニ成ナハ悪カリナン又不戦シテ引取トモ大勢討ルベシ所、後ノ軍勢不押誥間ニ、一合戦シテ可引取間、先我等馬ヲ入ヘシ其時敵騒動セン所ヲ突テ懸リ給ヘ」ト云テ、大膳鞍立ススカシ腹帯ヲシメ、敵ノ真中ヲ乗刻、右ノ方ノ平山ノ中段ヘ廻テ、又鞍立スカシ腹帯ヲシメ、敵ヲ十文字ニ乗刻タリ此騒動ノ所ヘドツト突テ掛リケレハ、敵一支モ不為崩ケル味方首ヲ捕コト四ツ五ツト云リ其時、玄番・大膳馬ニテ敵味方ノ間ヲ乗分、早々引揚ル然トモ、敵モ烈ク追駈来所ヲ、大膳味方ヲ下知シテ引、玄番返シテ馬ヲ入ル大膳返シテ馬ヲ入レハ、玄番軍勢ヲ下知シテ引扨飯田村ヲ引越テ門毛村ノ下流ニテ、一町余ノ田切畷道一筋有上下エ廻ル道モナケレハ、可為様モナシ然ルニ、大膳・玄番、「爰コソ我々カ討死スル所ヨ」ト云テ、総勢ヲハ次第ニ静ニ引越セ、玄番敵ノ追来ル道ニヲ伏テ、敵追来ヌレハ追払々々スル敵二十・三十共集来ルヲハ、大膳馬ニテ駈破テ、右ニヒラキ左ニヒラキ、爰ヲ度ト防ケル其間ニ味方漸畷道ヲ引越タリ其時大膳、玄番ト一所ニ成テ、畷道ヲ静ニ馬ヲ歩ヒ①引越タリ夫ヨリ敵モ得慕ハサリケレハ、爰ニテ軍勢ヲ謐テ引テ帰リケルト也①ヒセ(大・金)一又或時、安達大膳・屋中玄番、味方ノ軍勢ヲ卒シ、敵ノ領分青柳村ヲ押越セリ合ケルコトアリ然ルニ、青柳村ニモ惣構ニ大木多茂シケリリ*、又向ニ熊野宮ト云森茂リ、其間ニ二・三間ノ道一筋有ケル侭、空ハ一面ニ茂相タル所也其所ヲ追ツ返ツ両三度ノセリ合有ケルニ、大膳如何仕タリケン、指物ヲ木ニ引掛テ落タルヲ不知シテ引退ケルニ、跡ヨリ其名字名ハ不覚、是ヲ拾テ来ル者アリ大膳カ指物ハ二幅ニ長サ八尺ニシテ五輪ヲ黒ク、五輪ノ内ニ安達大膳ト我名名字ヲ白ク顕タル指物ナレハ、紛ナクシテ、流石ノ大膳ホトノ者、指物ヲ捨テ引カトののしりケレハ、大膳是ヲ見テ一騎取テ返シ、「吾指物ノ落タルヲ不覚シテ引退タリ申請度」由ヲ所望ス彼武者、「安キ儀也可遣」ト云其時大膳、「左有ハ迚モノ義也指テ給候ヘ」ト云テ為指ケルニ、彼武者モ大膳ヲ怖敷思ヒ、大膳モ彼武者ヲ怖敷思ナガラ為指ケルニ、互ニ情有テ不討ト也扨、大膳一礼ヲ云テ引退ケルト云リ其指物于今安達ノ家ニ相続シテ持伝タリト也去ハ、此大膳ハ十八歳ヨリ廿七才、中郡筋敵ノ堺目ヲ不去、数度ノ戦ニ終ニ臆シタル色ナク、屋中玄番ト両人ヲ①戦度ニ、数度遂功名ケルト云リ此外ニモ、毎度ノ高名有シカトモ、端々計ヲ聞タルハ不被書也然ルニ、大膳・玄番、終ニ手ヲ不負ト也誠ニ、冥加ノ武士也ト、世人モ云伝タリ去ハ、増古方ノ武士一人、此大膳ヲ討取ント心懸、鉄炮ヲ以テ二・三間ニテ両度打ニ不中又或時大膳、月毛ノ馬ニ乗テ引退ケルニ、跡ヨリ烈ク追掛、三間余有ケル一ツ橋ノ所ヘ追誥タリ然ルニ、大膳彼一ツ橋ヲ何造作モナク駈渡テ引退タリ此後、彼武士云ヤウ、「扨々無類ナル武士哉彼ヤウナル冥加ノ武士ヲ討取ナハ、却テ為身悪カリナン」ト云テ、其後ハ不心懸ト也①ヲシテ(大・金)一屋中玄番、老後ニハ、永井右近殿エ被召出行ニ、城州淀エ登リ、淀ニテ病死仕タリト也然ルニ、浅野采女正殿家来、稲川角兵衛ト云者ハ、此玄番カ姉ノ子ニテ甥也扨、大坂帰陳有テ以後モ、玄番ハ在所橋本ニ引籠テイタリケルカ、此角兵衛、大坂陣ニテ塞フサ手イテ帰ケレハ、玄番殊ノ外ニ悦着シテ、「其方事今度天下別目ノ合戦ニテ首尾能段、於吾満足シタリ此以後何ケ度モ大事ニ可侭、語聞セ可申」トテ語ケルハ、「其方モ聞及ツラン先年我馬ヲハ根小屋殿ニ奉リ、吾ハ歩行立ニ成テ平沢縄手ヲ引退ケルニ、『功名咄』四(中巻ノ下)(65)65ヲクレ軍ニテ有ケレハ、我後ニモ何十人カ有ンニ、両方ハ深田ノ、殊更五月末ナレハ深泥ナリ道ハ細シ先ヘ退行者共急トスレトハカ不行ケレハ、敵追誥、味方ノ具足ノ上帯ヲツカンテ、引倒シテ首ヲトレトモ、一人トシテ返シテ戦者ナク首ヲ被捕ケル故ニ、次第ニ被討テ最早我後ニ二・三人ニ成タリ是ハ如何スヘキトモダユル様ニ思ケレトモ、可為様モナク、又四・五間行ハ広キ畠ニ出ル所也最早押付我等カ被引倒番ニ成ヌト思ヒ、無是非前ニ立タル男ノ上帯ツカンテ引倒シ、先ヘ抜出、彼男ノ首ヲ敵ノ捕間ニ、又先ナル男ヲ引倒シ、先エ抜出筋違ニ一間計飛テ、畠岸ニ飛付タリ夫ヨリ広ミユ①出ケレハ、吾自躰達者ニハアリ、人先ニト引退テ、希有ノ命ヲ助たすかりケル今是ヲ思テ味方ヲ助ルコソ武士ノ本意ナルニ、覚有振舞、臆病ナル働、於今面目ナク、兎角ヲ可云様ナシ然トモ、人モ不知之コソ、其沙汰モ其方ナラテ終ニ人ニ不語去ハ武士ハ強計ニテモ不成命生タレハコソ、次ノ年親ノ弔合戦ヲモ仕テ本望ヲハ達ツレ其方ハ若者也角有働コソナカラメ命ヲ全シテ遂高名ヨト云シハ、此所也ケンカシ其段心得給ヘ」ト語リシト云々①ユヱ(大)、ニ(金)一元亀・天正ノ比ヲヒ、蒲生忠三郎殿ト申ケルハ、初ハ江州日野谷ト云所ニテ、二・三万石ノ領主タリシカ、後ニハ蒲生飛騨守氏郷トテ、奥州会津ニテ百万石ノ領主ト成給シ也此人若年ノ時分ヨリ、武勇勝レ給ヒ、新参者ヲ被召出テ被申ケルハ、「毎モ戦場ニテハ吾家中ニ鯰尾ノ冑ヲ着タル者アリ此者ニ不劣ヤウニ働ダニスレハ、別事ナシ」ト宣ヒシ彼新参者ハ「鯰尾ノ冑着タル者ハ誰ナルラン」ト思ヒテ居ケルニ、戦場ニテ見ニ忠三郎殿ニテ有シトカヤ扨、前ニ成テハ、毎度忠三郎殿一番ニヲ入初給ヒシ然ルニ、直ニ懸ハ余リ早過ルニ依テ、敵味方ノ備ノ間ヲ筋違ニ懸テ惣勢ヲ引付、敵ヲ追崩シ給ヒシト云リ又或時、氏郷戦勝給テ、将机ニ腰ヲ掛テ居給ヒシ所エ、家来ノ侍二人首ヲ持テ来リ「一番首ニテ侍ル」ト云ハ、今一人ノ侍「否、一番首ハ我ラニテ侍ル」ト云諍ケレハ、氏郷宣ヒケルハ「不可諍吾能見タル上ハ」ト宣ヒシ間、両人不諍シテ御前ヲ退去ス其時一人ヲ呼返給ヒテ、ヤタテニテ順礼歌一首ヲ書テ被遣ケリ其歌ハ「普陀楽ヤ岸打波ハ三熊野ノ那智ノ御山ニ響ク瀧津瀬」ト云歌也此侍、「是ヲ以後ノ証拠ニハ如何」ト思ナカラ取テ帰リ、能々思量仕テ見ハ、先一番ニフダラクヤト謡、是ニテ給ヒシトハ以後コソ思当ケルト也誠ニ、名将ノ機転、凡智ノ所及ニ非ス扨又、何ノ家ニカ此短冊ヲ持伝テ有ラン扨々覚有物ヲ武家ニハ功勝ニ一ツ成トモ残度者也"}]}, 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『功名咄』(四) : 中巻ノ下
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名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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KJ00007816179 (550.9 kB)
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Item type | 紀要論文(ELS) / Departmental Bulletin Paper(1) | |||||
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公開日 | 2012-03-01 | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | 『功名咄』(四) : 中巻ノ下 | |||||
タイトル | ||||||
言語 | en | |||||
タイトル | Reprint of Komyo Banashi(Volume2 Part2) | |||||
言語 | ||||||
言語 | jpn | |||||
資源タイプ | ||||||
資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_6501 | |||||
資源タイプ | departmental bulletin paper | |||||
ページ属性 | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | P(論文) | |||||
論文名よみ | ||||||
その他のタイトル | コウミョウ バナシ 4 チュウカン ノ ゲ | |||||
著者名(日) |
江本, 裕[編]
× 江本, 裕[編] |
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著者名よみ | ||||||
識別子 | 13 | |||||
姓名 | エモト, ヒロシ | |||||
著者名(英) | ||||||
識別子 | 14 | |||||
姓名 | Emoto, Hiroshi | |||||
言語 | en | |||||
雑誌書誌ID | ||||||
収録物識別子タイプ | NCID | |||||
収録物識別子 | AN10272489 | |||||
書誌情報 |
大妻女子大学紀要. 文系 巻 44, p. 49-66, 発行日 2012-03 |