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"問題意識と関心の所在本稿は、旧植民地時代の台湾で発行されていた旬刊/週刊新聞『新高新報』(一九一六―一九三八)日本語欄の言説分析を通じて、メディアとしての新聞が形成する情報空間のあり方と、そこでの言語的抵抗の様相にかんする議論を試みる。以下、具体的な論述に入る前に、本稿の問題意識と分析対象について、簡単に言及しておきたい。二〇世紀の前半期までは植民地を持つ帝国であり、敗戦後のある時期までは移民の送り出し国でもあった日本列島出身者たちは、棲みつき・滞在した各地で新聞と名のつく印刷物を作成・発行した。経営環境や発行期間、頻度、形態、発行部数、内容等にはばらつきがあり、中には、現在一般にイメージされる〈新聞〉とは大きく異なるものもあったが、特定地域の植民者・移住者・一時滞在者を対象としたコミュニティ紙的な日本語新聞や、旧植民地やその隣接地域で発行されていた日本語新聞は相当数に及ぶ。これら〈新聞〉の消長は、日本帝国の軍事的・経済的な対外政策やホスト国との外交関係に多分に左右された。それでも、『昭和五年版日本新聞年鑑』(永代静雄編、新聞研究所、一九二九)には、台湾に四紙、樺太に八紙、朝鮮と満州に各二一紙、その他中国各都市、シンガポール、ジャワ、カナダ、ハワイを含むアメリカ合州国で刊行された日本語新聞の概要が紹介されている。『日本新聞年鑑』は、原則として広告媒体となりうる企業的な新聞を中心に掲載するので、実際の数はもっと多かったはずである。実際、本稿が取り上げる台湾の旬刊・週刊新聞は、一紙も記録されていない。現在、これら各紙の現物を確認することは簡単ではない。新聞は基本的に読み捨てられるメディアだし、そもそもこれらは発行部数自体が多くない。発行地によっては、保存どころか、積極的に廃棄された可能性さえ否定できない。よって、考察も限定的なものとならざるを得ないが、それでも、蛯原八郎による先駆的な仕事以後、着実な調査・検討が進められてきた(1)。まず触れるべきは、日本語新聞のコミュニティ紙としての側面に注目した田村紀雄らのグループの研究である。『米国初期の日本語新聞』『カナダの日本語新聞』等にまとめられた一連の論考は、主に、アメリカ合州国・カナダ各都市での日本人移民・一時滞在者たちの〈世論〉を知る媒体として日本語新聞を取り上げ(2)、とくに、移民社会の「オピニオン・リーダー」となった人物の政治的スタンスや思想的背景を論じている。一方、アジア圏の日本語新聞は、基本的には植民地当局や軍、国策会社の情報政策とのかかわりで位置づけられることが多かった。李相鉄の労作『満州における日本人経営新聞の歴史』は、満鉄が「満州におけるほとんどの新聞に定期的あるいは不定期的に補助金を出していたこと」を明らかにし、満鉄の機関( 97 ) ― 97 ―紙『満州日報』の論説記事の動向について議論している(3)。ただし、台湾総督府の〈御用紙_ 『台湾日日新報』や、朝鮮総督府の肝いりで発刊された『京城日報』の研究にも言えることだが、何らかの公的機関とのかかわりが知られる新聞にかんしては、それらの論調が、日本帝国の軍事的・経済的な行動や政策をいかに合理化したかという点に関心が集中している観がある(4)。もちろん、そのような側面があったことは否定しない。経営を担った側にとっては、それこそが第一義的な目的だった媒体もあるだろう。しかし、新聞はその特質上、多様かつ大量の言葉を抱え込まざるを得ない。新聞を一人で書くことはまずできないし、他の新聞との相対的な関係に置かれてしまうために、否定的な言及も含めて、さまざまな立場の言葉を取り込む必要がある。新聞から響く声は、原理的に、決して単一のものとはならないのである。田村紀雄は「日系新聞」について「国家の対外政策として政略的に発行されたことのある旧満州(中国・東北部)、シンガポール、ジャカルタなどの新聞と、移民の自主的活動として生まれた移民紙とは区別して考えねばならない」と言っている(5)。だが、かりに日本帝国やその出先機関の代弁者的な存在だったとしても、手に取られ・読まれる以上、それぞれの地域コミュニティとの関係が生じないはずがない。その意味で、植民地の地域紙と移民紙とを区別する発想自体の再考が求められていよう。そこで興味深いのは、ポストコロニアル批評受容以後の近代日本語文学研究の一部に見られる動向である。近年、数としては多くないが、アジアや北米の日本語コミュニティで発行された新聞の文芸欄・文学言説に焦点化する論が登場している。具体的には、木村一信や池内輝雄の『爪哇日報』をめぐる仕事、日比嘉高の北米日本語紙を対象とした論考が挙げられる(6)。これらは、対象となる新聞の資本関係や政治的立ち位置をいったんカッコにくくった上で、①当該地域において文学言説がコミュニティの形成・維持に果たした役割、②東京の文学言説との想像的な距離意識、③各地域の文学言説の場を主導した書き手の_巡礼〉の遍歴に着意している。新聞という媒体の機能と文学言説の潜在的な応用可能性の双方を問題化する仕事と言えるが、やはり、分析対象を文芸欄・文学言説に限定したことは問題なしとしない。すなわち、従来的な〈文学〉ジャンルを前提とした対象選択がなされ、しかも、日本語を第一言語とする書き手の、東京の文壇への視線がつねに意識されるため、結局のところ、日本の〈周縁〉に、二流の日本語文学の存在を書き加えただけ、という印象は拭えないのである。如上のように状況を把握する本稿はいささか大仰な言い方になるがメディア研究と文学研究との方法的な節合を試みたいと思う。従来、メディアとしての新聞の研究は、享受する受け手の層の拡大=普及や、発行部数それ自体の増加を〈発展〉として捉え、記述することが多かった。そのため、大都市圏を基盤とするマス・メディアを軸とする発想になりがちだった。資本主義的企業としての成長と頒布対象範囲の拡大を肯定的に見ることは、中心から周縁に向かう情報の流れを暗黙のうちに前提化することにもなった。しかし、メディアは人と人とを結びつける装置である。部数の大小のみが影響力のすべてではないし、_中央〉の政治・経済・社会の情報だけに価値があるわけでもない。新聞という媒体に載った情報は、一定の間隔で更新されながら流通し、口さがない人々の対面的な言葉のやりとりによって位相の異なる循環を生み出しながら、人々を束ね、コミュニケーションの量を分厚くして、往復し堆積した言葉が、人と別の人(々)との親密さや疎遠さを織り上げていく。そのように考えると、文脈や場面に応じた情報の価値を推し量り、言葉が担ってしまう様々な意味や効果を析出するすべを洗練させてきた文学研究の蓄積は、メディアとしての新聞の分析にとって、方法的な資産たりえるのではないか。繰り返せば、メディアは、何かと別の何かをつなげ、結び合わせることからその名がある。だが、メディアは、作為的な不作為を積み重ねたり、特定の言説を反復=実定化することで、潜在的・可能的な連関を断ち切ることもある。だから、ある新聞において何がどのように語られたか― 98― (98 )を見ることで、新聞を手に取る読者とそれ以外の他者との想像的な関係性について議論することができる。読者が、どこの・誰と・どのように出会い/出会い損ねているかを明らかにできるのである。ちなみに、本稿が対象とする旬刊/週刊新聞『新高新報』日文欄には、いわゆる文芸欄は存在しない。文学言説にあたるものと言えば、わずかなスペースに掲載された短歌や、「へなぶり」と呼ばれる狂歌風の短詩形作品ぐらいである。今回議論する範囲では、著名な日本語文学作者の名前は佐藤春夫ぐらいしか見当たらない(7)。だが、本稿の立場から言えば、取り上げる記事が〈文学〉に該当するかどうかは大きな問題ではない。むしろ、『新高新報』日文欄を一つの情報空間として見たとき、さまざまなジャンルや話題に渉る記事たちが、総体として、どんな接続/切断を行ったかの検討が課題となる。なお、『新高新報』自体を対象とする研究は、台湾でのそれを含めて、未だ緒についたばかりと言ってよい。現時点では、メディア研究の李承機による浩瀚な論考と、政治史の岡本真希子の仕事が挙げられる(8)。とくに、李のすぐれた研究は、植民地期台湾のメディア史総体を射程とする基礎的業績であり、本稿を構想する際にも非常に参考になった。ただ、ラジオや映画を含めた植民地期台湾のメディア経験全体の歴史記述を志向する李の議論は、当然ながら、特定の媒体の・限定された期間の問題に微視的に目を向けるものとはなっていない。一方、岡本は、『新高新報』主筆・唐澤信夫が中心となって展開した「内地人」の権利要求運動と、「本島人」=台湾人による自治運動・社会運動との接点とすれ違いについて、興味深い論点を提出している。しかし、政治史の研究者である岡本の関心は、あくまで政治過程の記述とそこにつながる言論の確認にあり、『新高新報』をメディアとして取り上げようとする視点を欠いている。本稿が一九二九〜一九三一年の『新高新報』日文欄を検討対象とするのは、もちろん、論者の能力の限界と資料的な制約のためである。しかしこの時期は、旬刊から週刊への移行をはさんで、『新高新報』自身がライバル紙との競合の中で、媒体としての独自性を模索する時期でもある。その際『新高新報』は、漢文欄だけではなく、日文欄でも「本島人」の存在を意識し、彼らを巻き込む余白を含んだ紙面を作り上げていった。いわば、日文欄が、日本語を第一言語とする者のみに占有されない、葛藤的な状況が生まれていたのである。ごく限定された時期を対象とするが、『新高新報』という情報空間が示唆する諸問題について、若干の考察を加えてみたい。一九三六年の台北で刊行された『台湾新聞総覧』(豊田英雄編、国勢新聞社)によれば、『新高新報』(以下『新高』と略記)は、台湾の北の玄関口だった港湾都市・基隆に本社を置く週刊新聞である。前身は一九一六年一月創刊の月刊誌『高砂パック』。一九二一年に『台政新報』、一九二四年に『新高新報』と改題、発行形態も旬刊(一九二八〜)、週刊(一九三〇・四〜、週刊化許可は一九三〇・三・一〇)と変化した。ただし、これはあくまで名義上の話であって、経営レベルでの連続性はない(9)。八段組・一六ページが基本形だが、「附録」や「追加」が付くこともある。『台湾新聞総覧』は、「現況」として、次の一節を書き加えている。現社長唐澤信夫氏の公平で然も明るい是々非々的な筆陣は台湾のインテリー層から特に歓迎されている、昨秋唐澤氏が台北市会議員として見事最高点で当選したことも新聞を通じての人気が九分通り影響していると観てよかろう斯如人気は社運の隆盛となり、此の頃では発行部数も全島週、月刊紙中断然第一位を占めている(_)当時、『新高』の社長と主筆を兼務していた唐澤信夫のスター性を物語る記述と言えようが、若干の注釈が必要だと思われる。そもそも、対抗的公共圏の言説編制( 99 ) ― 99 ―2媒介=媒体メディアとしての『新高新報』なぜ台湾で『新高』のような旬刊・週刊の新聞媒体が発行されていたのか・なぜ次々と経営者の交替が行われたかを理解するためには、台湾総督府によるメディア統制を考慮に入れなければならない。総督府は、児玉源太郎総督=後藤新平民政局長体制下の台湾新聞紙条例・台湾出版規則(一九〇〇)公布以後、かなり厳格なメディア規制・統制を行っていた。とくに、日本帝国による領台直後、民間の在台日本人が創刊した新聞が総督府やその施政・統治に対する批判をくり返したことの反省から、総督府当局は、新聞紙の発行を許可制とし、島内の拠点都市である台北・台中・台南の日刊三紙『台湾日日新聞』(台日) 『台湾新聞』(中報) 『台南新報』(南報)を経済的に支援する一方、それに対抗する民間メディアの発刊に対しては、日本人が経営するものでも慎重な態度を崩さなかった(_)。一九一六年、台湾東部の花蓮港で日刊紙『東台湾新報』創刊が許可されたが、当時は内務大臣だった後藤新平が、「植民地は無暗に言論を開放するという事は面白くない何処の植民地に斯る処ありや」と、総督府の担当官を批判した、という挿話が伝えられるほどである(_)。台湾人の経営する日刊紙は、粘り強い運動の結果、ようやく一九三二年一月に『台湾新民報』日刊化が認められるまで存在しなかった(発行は四月より)。すべての逐次刊行物(新聞・雑誌)には事前検閲が義務づけられ、週刊から日刊といった発行形態の変更さえ、総督府の許可を得なければならなかった。こうした事情から、新たに「総督府から「新聞紙」発行許可を得るのが困難だと考えたものが、既存の「新聞紙」を買収することで「新聞紙」経営の権利を手に入れ」る(李承機(_))ケースが続出したのである。『新高』自身、一九二九年九月二五日号を「五周年記念」号と銘打っており、改題した一九二四年を創刊の年と考えていることがわかる(_)。『台日』『中報』『南報』の〈御用三紙〉には手厚い保護を与え、それ以外の民間紙には厳しい姿勢で臨む総督府のメディア政策は、とくに『新高』をはじめとする週刊新聞の位置性にとって、大きな規定要因として働くことになる(_)。先に掲げた評言、唐澤の「公平」で「是々非々的な筆陣」の一方の含意が、対=総督府との関係にあることは明白だ。例えば唐澤は、「硝子張り」という巻頭言ふうの文章を発表している(『新高』一九二九年六月五日。以下、’29・6・5と表記)。曰く、「『立憲政治とは、硝子張りの家の中の生活である』と叫んだカーライルの言を真なりとするならば、硝子張りの家でない生活換言すれば、総督府の塔のような煉瓦造りの家の中の生活は一体『××政治』と命名するだろう?」。伏字に入るのは、_強権〉_専制〉_反動〉などの語だろうか。議会制における政策決定プロセスを透明なものと位置づけ、それに比して、公正でない・意志決定に不透明な暗部をかかえた行政府として総督府を諷しているわけだ。他にも『新高』紙上には、総督府内の利権体質を非難するこうした言説が頻出する。一九二九年七月一五日付けの記事は、川村竹治前総督(在任一九二八・六―一九二九・七)が離任する直前に、「開墾地」の予約払下げや、酒工場の買収や、電力会社の社長の更迭や、総督府評議会員の任命など、「先々の事迄考えて、かゆい処へ手のとゞくほどいろ_\t親切な仕事をして下すった」と述べた上で、「一口に仕事と言っても、良い仕事と悪い仕事と、儲かる仕事と、損をする仕事とコンミッションを貰える仕事と、貰えない仕事」があると揶揄している(「行き掛けの駄賃」『新高』’29・7・15、附録3面)。この頃の台湾では文官総督制が定着し、東京での政権移動と台湾総督府の人事とが連動するようになっていたが、「読者の声」として「台湾官界のどさくさに伴う、『火事泥』に対しては世人は等しく厳重監視の要がある」と述べる記事(「官吏諸公に公正を望む」’29・7・15、2面)や、「今日の官吏が殆ど政党色を有し、政変毎に或は浮び或は浪人生活におとし入れられる」こと、そのため「あらゆる手段を尽しあらゆる方面から掴めるだけの利権を掴む、といった傾向が植民地首脳部の間にあること」 を指摘する記事も読まれる(「 拓務大臣の権限と植民地住民の自覚」 ’29・7・25、9面)。いわゆる〈普通選挙〉の実施後、嵩む一方の選挙費用を確保するためのドル箱として植民地利権が発見されている、という観察もあ― 100― (100 )る(渡邊哲幹「積極曲、消極譜」’29・10・15、2面) 。なお、一九二八年以後『新高』主筆となった唐澤信夫については、当時の民政党との親密ぶりが指摘されている。そのことから、主に民政党人脈を狙ったロビー活動を展開していた「本島人」の活動家、とくに『台湾(新)民報』に近いグループとのかかわりが生じていた。『新高』紙上にも、「一般に真面目な人達の考え」を総合すると、民政党のやり方の方がまじめで正しい気がする、という記事(「政変に対する各方面の観察」’29・7・5、10面)もある。だが、政友会/民政党という党派的差異は、総督府の体制・内部規律批判とはそれほど連動していない。許認可権を私利的に行使しようとする官僚たちや、役人に賄賂を贈ったり、個人的なコネクションを持つ(持とうと策動する)一部の「内地人」「本島人」への批判など、官僚批判・特権層批判の論調の方が主題化される傾向は一貫している。こうした批判を、議会制度を「硝子張り」という理念的な言辞で言及した唐澤の〈民権論〉的な主張のあらわれと見ることは可能である。岡本真希子は、唐澤を在台日本人側民権論者の代表的存在と位置付け、「在台内地人の「民権」論は、総督府専制政治を批判し、「民意」ある政治の実現を主張するもので、台湾島内における官僚政治との対抗軸のなかで展開され」、そのため「地方自治促進という点では台湾人の政治運動と接点を持ちながら」、「あくまで台湾を「帝国日本」の一部として位置づけ、かつ、台湾人の「同化」を前提とする以上、政治参加の回路は、総ての民族運動を否定し、「内地延長主義」へと向かうものであった」と総括している(_)。妥当なまとめと言えようが、しかし、『新高』の紙面を編み上げているのは唐澤の発言だけではない。本稿にとって大事なことは、官僚(制)批判、特権階層批判を積極的に展開する『新高』の議論が、その対極に、公共性・公平性にかかわる言説の場を開いてしまっているということだ。一九二九年の矢内原忠雄は「大体内地人対本島人の民族的対立は同時に政治的支配者と被支配者との対立、並びに資本家対農民労働者の階級的対立と相一致し相競合する」と述べている(_)。だが、「民族的対立」と階級的差異とを同一視する矢内原の観察は一面的である。それに、政治的な意志決定に参与する筋道が実際上閉ざされているという点では、台湾在住の「内地人」も「本島人」も先住民も同じではあった。_民権論〉の〈民〉とは、_官〉ならざる存在を指すのであって、定義上、「内地人」「本島人」というエスニシティとは直接にかかわらない。一九三〇年の統計では、台湾の人口は約四六八万人。うち、在台日本人は二三万人強でしかない。そのような場所で、権利を分有すべき存在としての「民」という文言を提起すれば、台湾在住の非日本人、とくに人口のおよそ九割を占めた漢族系住民のプレゼンスが視野に入らざるを得ない。実際問題として、一九二〇年代後半の台湾発行各紙は、「本島人」と呼ばれた漢族系住民の読者を無視できない状況にあった。総督府の庇護下にあった〈御用三紙〉は、「内地」から移入される大手の新聞各紙と実質的な競争状態に入っていた(一九二〇年代末から三〇年代初頭にかけて、大朝・大毎の二大紙が台湾市場で角逐を演じ始める(_))。週刊紙についても、先行する『台湾経世新報』が「週刊紙洪水時代」と述べるほど続々と創刊されていた( _)。こうした競争的状況にもかかわらず、在台日本人の爆発的な人口増が考えにくいとなれば、潜在的読者として「本島人」が意識されるのは当然だろう。そもそも、台湾島内で発行される新聞各紙の多くには、日文・漢文双方の欄が設けられていた。だが、日文欄=在台日本人、漢文欄=「本島人」という切り分けは必ずしも実態を反映していない。「内地人」が漢文欄を読むことはあまりなかったろうが、日本語を第二言語として教え込まれた/習得した「本島人」読者たちは、日文欄にも積極的に参入していた。例えば、『新高』はしばしば模擬投票イベントを実施しているが、一九三〇年一月〜二月に行われた「民設台湾評議会の一般投票」は、興味深い経過をたどっている。一九三〇年一月二五日付の第二回開票時点で、総投票数は二万九二〇八票。うち、上位一〇名を見ると、一位の李瑞雲(六四四票)をはじめ、五名を「本島人」が占めている対抗的公共圏の言説編制( 101 ) ― 101 ―(「清き一票を人気男へ!(_)」)。そのせいだろうか、最終的な当選発表の際には「内地人側」「本島人側」と分けられ、各一五名ずつの名が挙げられている。ただし、投票総数二三万八六一二票を得票数の多い順に並べ直すと、上位三名はいずれも「本島人」になる(林献堂五六八三票・李瑞雲五二六一票・蔡培火四八二八票。「内地人」側の一位は三好徳三郎の四六七二票(_)。「当選者芳名」’30・2・15、8〜9面)。この結果から、漢文欄のみの読者を含めて『新高』が相当数の「本島人」読者を抱えていると推測して間違いないだろう。確かに『新高』を繰っていると、日文欄に「本島人」の書き手が署名入りで執筆することは珍しくないし、無署名のものでも、「本島人」記者が執筆したと思しき事例が少なからず認められる。貧故に、一本か二本の木を、伐り取ったと言う丈で、盗伐と言う忌わしい罪名の下に法廷へは引出される、新聞には、さも大悪人か何かの様に、仰々しく書き立てられる社会からは、一生前科者として爪弾きされ、暗い一生を送る可く余儀なくされて居る人々が少なくない今の世の中に、これは又何と言う大きな矛盾であろうか、いかめしい肩書の持主なるが故に白昼公然、職権を濫用して官有林から檜材の上等を伐り出すことを黙許され台湾宣伝用材木とさえ銘打てば、汽車も汽船もボウ賃で、東京迄送り届けられ、原始林中にあった木材が一夜の中に、都人士を驚倒させるような立派な檜御殿に早替りしても、世間も不思議がらなければ、新聞も之を問題にしない。こんな片手落ちの話がドコにあるか! (「時代の鐘弱者の悲鳴」’29・8・15、2面)「醒めざめた民衆が何時迄、此の矛盾をそのまゝ認容するであろうか?」「醒めた民衆よ!撞け!時代の明けの鐘を、勇敢に!そして高らかに!」とシュプレヒコールばりの左翼的言辞を連ねるこの記事が考える「民衆」は、「本島人」を指すと見て間違いない。実際に『新高』が〈官〉よりも〈民〉に重きを置き、一部の官僚と結びつく特権層が経済的・社会的な不透明感を助長していると論陣を張る以上、特権から疎外された〈民〉から、「 本島人」 を排除する論理的な根拠はない。そして、その〈民〉の意思をメディアが代表=代行すると考える以上、『新高』に『台湾新民報』発行不許可に抗議する一文が読まれるのは、いわば論理的な必然である。「 権威ある新聞を許せ」’29・6・17、14面)は、今後の台湾統治にとって大事なことは「少数の御用紳士を如何に操縦すべきかと言うことよりも、後から__と活社会へ送り出される多数の台湾青年を如何に指導し啓発すべきか」が重要だが、現在の島内発行紙の中で「彼等青年の心理を理解し、彼等の不平、不満、悩み、喜び、希望、主張を率直に披歴(ママ)する役割を演じて居る新聞が果して幾つあるか?」と反語ふうに問いかける。そして、「総ゆることに公明をスローガン」とする新聞界に「真の言論時代」を実現するという理念を掲げて、当局の再考を促すのである。むろん、当該文中には、あくまで台湾統治のために、という限定句が付されている。しかし、この限定を単なる形式的な言辞ととるか否かは、相当程度読み手の力点の置き方に依存する。『新高』日文欄には、本稿が対象とする時期だけをとっても、蒋渭水、蔡培火、林呈禄、謝春木、蔡式穀など、台湾民衆党や台湾自治連盟・『台湾(新)民報』系に連なる有力な台湾人指導者の談話や記事が読まれるが、ほぼ例外なく言及されるのが、『新高』の「公平さ」なのだった。台湾自治連盟の有力メンバーだった蔡式穀は、「台湾の如き土地に於ては、正道に拠り公平な態度を持った新聞が切に要求せられているのであるが、不幸にして一般島民の繁栄を考えない所謂御用新聞のみ多い」と述べ、「その間に在って貴紙が公平なる立場を採って来たということは甚だ喜ばしいこと」だと持ち上げている(「是非公平に」’29・9・25、追加3面)。既述のごとき『新高』の立ち位置を踏まえた発言だが、ここで言われる「一般島民」には、もちろん「本島人」を含んでいる。― 102― (102 )週刊紙『台湾民報』主筆の林呈録は、「我が島内で内地人の主宰せる新聞雑誌は少なくないけれど、貴報の如く正しい筆鋒を以て勇敢に偏見的邪説と戦えるものは殆ど見出さない」「稍もすれば邪説横行、正論屏息(ママ)の台湾に於て、内台人の融和上今後一層貴報の健筆」に期待する、と述べる(「内台融和の弁」’29・9・25、追加3面)。これらの発言を、単なる社交辞令としてのみ片づけるべきではない。活発なジャーナリズムの積極的な介入によって支えられる「公明さ」を肯定的な価値とする『新高』の位置性は、「本島人」に対する公正さ・公平さという捉え方をも許容してしまう。まるで「本島人」の書き手たちは、『新高』をその言葉に縛りつけるかのように、「公平」な姿勢を賞賛し、さらなる「公平」さの徹底と実現に期待を寄せる。何より『新高』自身が、営業上の理由も含めて、そうした見方を自分からは排除しなかったのである。3世を憂える男たちのメディア前節で言及した『新高』の論争的性格は、ある意味で、旬刊・週刊新聞という形式的な特性に由来する、とも考えられる。李承機の言葉を借りれば、「速報性・迅速性において明らかに日刊に劣っている週刊新聞としては、その生き残り策の第一の要務はいかに日刊と差別化していく」かであり、そこで打ち出された戦略が「報道中心の日刊とは異なり、週刊は言論中心であり、なおかつ日刊の「監督機関」であることを自任」することだった(_)。いわば、新聞についての新聞=メタ新聞的な役割、ということになるだろうが、『新高』の場合は、総督府批判とも連動した〈御用三紙〉との関係だけにとどまらない。旬刊や週刊を含め、台湾の新聞業界総体の不健全さを問題化する論が多く見られる。裏付けをとらないまま風説を「センセイショナル」に報道した日刊・週刊各紙の報道姿勢に対する批判(「全く無根の噂海山郡守抜刀事件の真相」’30・1・25、8面)や、「今の世の中で最も見て来たような嘘を、平気でついて居るものは、新聞紙である」と『台日』『中報』『南報』各紙の「誇大な報導」ぶりをいちいち指摘する記事(「誇大新聞記事抜萃帖関係者こそ大迷惑大新聞よ注意せよ」’30・4・3、7面、あるいは、「台湾新聞の虚報」「台南新報大ゲサ」 ’30・12・18、10面)。同じ週刊紙の『台湾経世新報』については「経世新聞(ママ)の基隆通信はアテにならぬ大ヨタと虚報を飛ばす事に於て有名」と前置きして、静岡の地震で「一家惨死哀悼の意を表す」などと書かれて死んだことにされてしまった医師からの抗議があったことが記される(「基隆通信の『傾城に誠なし』」’30・12・11、9面)。また、実体のないニセ記者が各地に横行する様子を、台湾ジャーナリズムのレベルの低さのあらわれと指弾する記事もある。新聞社や雑誌社に籍のない者が金品をせびったり、記事にするぞと脅迫まがいの行動をくり返していると嘆くもの(「出没する幽霊記者」’29・6・25、3面)、高雄州各地に日刊・週刊の漢文記者や支局長の名刺を振りまわす朦朧記者が増加したことに注意を喚起するもの(「屏東ラジオ朦朧記者跋扈」’30・2・15、10面)。だが、現実に新聞記者の不祥事はあったのだろう、『大阪朝日』支局長の蒲田丈夫は、台湾においては「僕は新聞記者です」と名乗ることが、相手方に「僕は悪党なんだ」「僕はゲヂ__なんだ」と聞こえているのではないか、と業界全体に向けた警告を発している(「公明の為めに健闘を祈る」’29・9・25、4面)。もっと端的に、「新聞人なるが故に、悪事を敢てすることが許されるのか!同業者なるが故に新聞人は、仲間同士の悪行を弁護し擁護しなければならないのか!」と指弾する記事も見られる(「悪徳記者御用心!」’31・4・16、4面)。公論を担う組織として自ら襟を正そうと呼びかけるこうした論説は、一義的には他の島内各紙からの差異化を目指している。だが、少し考えればわかる通り、『新高』も同じ台湾の新聞の一つである。かりに批判であれ、台湾ジャーナリズムの悪評や問題が反復的に前景化され対抗的公共圏の言説編制( 103 ) ― 103 ―ることは、自紙の立ち位置に再帰的な影響を及ぼしかねない。実際に、その高尚な自己規定にもかかわらず、『新高』紙上にも他紙と同様の訂正・取り消し記事は散見されるし(例えば、窃盗事件を起こした小僧の在籍していた店を間違えた「小僧違い」’29・8・15、3面。「取消し」’29・11・15、3面)、編集部が受け取った長文の抗議をそのまま掲載した例(「 被害者の弁」 ’30・2・5、10面)も見える。『新高』記者・嘱託を騙る偽者に「御気を付け下さい」と呼びかける記事さえある(「偽記者に御注意」’30・4・3)。李承機によって、同時期の週刊紙『昭和新報』が半ば自覚的に「イエロー・ペーパー」としてのメディア・イメージを引き受けていく様子が観察されているが(_)、『新高』にも類似の事態を指摘できる。旬刊/週刊紙としての『新高』は、確かに政治や社会やジャーナリズムを論じる「言論中心」の一面を持っていた。しかし、まさに自紙が積極的に批判したようないかがわしさから決して自由ではなかったし、ある局面では、それを戦術的に活用していた節もある。具体的に見てみよう。『新高』日文欄の紙面には、毎号ほぼ例外なく、「柳信」「紅談」「花信」などのタイトルで、島内各地から寄せられた花柳界関係記事が掲載されている。とくに、当時の台湾でも急速に拡がっていたカフェーに関連する記事の充実ぶりには瞠目させられる。島内各所の女給の紹介、サーヴィスの内容をはじめ、女給と客との交流を小話ふうにまとめたもの、女給同士の鞘当てを面白おかしく脚色したもの、さらには『台日』で紹介された女給が人気者になってしまったので「ほんとうの恋が産れそうとのこと。御希望の向は急いで願書に履歴書、それに写真を添えて」早く申込み手続きをせよ、と宣伝なのか馬鹿にしているのかよくわからない記事まである(「恋する頃」’30・3・25、9面)。中には、「エロ時代にバーやカフェーの発展するのは当然なこと、当局が許可主義でカフェーやバーを許すこと__」と、政治的な意図を推測するような文章があるにはあるが(「エロ・百パーセントカフェー・全盛時代」’30・8・28、10面)、カフェー先進地とされた東京の情報などを含め、島内各地の歓楽街をめぐるガイド・ブックないし評判記的な様相を呈していると言ってよい。以上から窺えるように、『新高』のコンテンツは、基本的に男性ジェンダーの読者しか想定していない。そのことは、島内各地から発信されたゴシップ記事の内容を見れば明白で、とにかく「姦通」がらみのネタが目につくのである。夫が行商に出かけた隙に家出し、「 若い燕と共に現代式愛の巣」 を営んだが、その愛人とも別れて、今や堕落の淵に沈んだという妻の話(「 恋は思案の外」 ’29・12・5、3面)や、やはり商人の夫が地方出張している際、神戸―基隆間の直航船で働くボーイ「○○君」と「特別な関係」になったという女性の話(「夏の世のナンセンス物語_何が彼女を妹にしたか?」’30・7・3、9面)、あるいは、医師による姦通疑惑(「或る街医者の姦通事件」’29・7・15、4面。「妙な診察厄介千万なお医者御婦人方は御用心」’29・8・15、8面)や、夜の街で襲われそうになった女性による談話(「物騒な東門」’29・9・15、8面)などもある。だが、言葉としては注意を呼びかけるこれらの記事が、定型化された描写をしつこく行うことで、扇情的な事件の記述に力点を置くのは、予想通りの展開だと言ってよい。やはり反復的に叙述されるカフェー女給や芸娼妓の〈堕落〉を物語る一代記ふうの記事についても、同様のパターンを看取できる。加えて興味深いのは、いわゆる〈内台融和〉ものの記事である。「内地人」と「本島人」の恋愛関係が「艶種」として紹介される場合、「本島人」男性と「内地人」女性という組み合わせがほとんどなのである(_)。ここには言語によって構築された植民地主義に内在する政治的無意識と、女性嫌悪的な不信感の表出という双方の問題を指摘できるが、『新高』においては、エスニシティにかかわる境界よりも、ジェンダー的な差異の方が強固な障壁となっていたことは確認しておきたい。こうした「艶種」の乱立状態は、もちろん、メディアとしての位置― 104― (104 )付けや評価に関係する。小松吉久は、台湾のジャーナリズムには「破邪に名を籍りて徒らに私人の秘事を発いて快しとする」傾向があると述べている(小松「朧を得て蜀を望む」’29・9・25、3面)が、『新高』も決して無関係ではない。前号に掲載した「美少女の狂言自殺」という記事について、「不審の点があるので調べた処」「針小棒大に書き立てた或る方面の中傷」と判明したので「若人の名誉の為」に取り消す、というもの(「事実相違其方面の中傷」’29・8・25)さえある。しかも、こうした訂正記事がなぜ必要かと言えば、紹介される「艶種」のかなりの部分が、わかる人にはわかる・人物を特定できそうな関連情報と合わせて提示されているからだ。台北市内のある寺で、夜な夜な女性を招き入れる「姓だけは馬鹿にコチ__した坊さん」の「乱行」の噂(「不思議な説教…知れると貴女の恥になりますよ」(’29・6・25、10面)、同じく台北市内での「医者仲間でも人格者扱いされている」「医者としての手腕も確か」と評判の男の姦通疑惑(先掲「或る街医者の姦通事件」)。かつて「台湾総督府○○局、□□課に勤務して居た」男が、夫と死別した妻に残された財産を色仕掛けで横領しようとした話(「人か魔か浅ましき色餓鬼の群毒牙に罹(ママ)った未亡人」’29・11・5、4面)。「色狐界には相当の敏腕を振」うことで知られた「営林署蕃界勤務の官吏」と一流旅館の女将との恋愛譚(「蘭陽艶話禁断の木の実」’30・6・7、8面)等々。毎号必ず掲載されるこれらの記事が、『新高』の言葉の真実性と信頼性を揺るがせ、先に触れたような「朦朧記者」を生む土壌ともなっていることは間違いない。とはいえ、注意すべきことに、論説紙としての『新高』の自認とゴシップ・スキャンダル記事の大量掲載という実態とは、必ずしも矛盾しているとは言えない。かつての『万朝報』ほどではないが、官僚や特権層のスキャンダルを好んで取り上げていることが一つ。あるいは、『スキャンダルと公共圏』のジョン・ブルーアが述べたような、自律した市民たちから成る公共性の理念を強く打ち出すことが、かえって_市民〉に相応しいか否かという私的領域の検閲を厳格化させるという逆説の作用も考えられる(_)。だが、それ以上に重視したいことは、『新高』のメディアとしてのいかがわしさが、ある種の対抗的な言説の埋め込みを可能にしている、という一方の事実である。改めて見直すと、『新高』には、背景の文脈を欠いた読者にはまるで理解できないインサイダー情報(らしき記事)がまま読まれる。言いかえれば、その記事の内容の復元にはよほどの裏付けが必要だが、総督府や〈御用紙〉の面倒な内情にかかわる話柄と推測できる(ように書かれた)一連の記事が存在している。典型的な例が、「『困る!困る!』困った局長」(’29・7・25、6面)である。「市街庄の基本財産を作ってやると言う、誠に誠に結構な御趣旨から」苦労して作った書類が一向に決済されないことに業を煮やした「豊田内務局長」が、「富田財務局長」の部屋に飛び込み、「君!困るじゃないか!あれ程、部局長会議で打合せてあることをグヅ__して居られちゃ、困るじゃないか!」と「ホントウに困って居るらしい」様子で連発したが、当の財務局長の反応は、次のようなものだった。…… 「僕だって困るじゃないか!ハンは僕のもので、サインをしようとしまいとそれは僕の自由だからネ。君も困るだろうが、僕も困るよ」と台湾のお台所、財務局長の部屋の中で、顔色迄変えて「困る」「困る」と所謂問題の書類を前に置いて応酬し合って居る二人の局長の会話を聞いて居ると確に二人は困って居るらしいが、一体彼等は何故困って居るのか。これ以上は「発売禁止」だからいくら追求(ママ)されても書くことは出来ないから記者も「困る」が、それならそんなに大勢の人を困らせるようなことをなぜ仕出かしたのか、事件の内容は何れ適当な機会を見て、詳細報導しなければなるまいが、富田財務局長が最後迄フン張って、ウンと承知しなかった為めに台湾がドレだけ助かったか、富田財務局長奮闘の一幕は後日物語として預って置く。対抗的公共圏の言説編制( 105 ) ― 105 ―軽妙な語り口で綴られたこの記事の「後日物語」は、残念ながら発見できていない。ただし、「これ以上は「発売禁止」」だと書かれている以上、ことの詳細が報じられたかは疑問である。それにしても気になるのは、なぜ「台湾のお台所、財務局長の部屋の中」でのやりとりを見てきたように書けるのか、ということだ。その情報源は定かではないし、それを横流しすることの意味も推測の域を出ないが、まったくの虚構でないとすれば、何らかのルートで総督府内から情報が流出したと考えるのが自然だろう。より生々しい話題も存在する。「多数の投書中よりその一齣を取ったに過ぎない右の事実は果して何を物語るか」という一言が付された「遂に乱脈を暴露した督府官房秘書課」(’29・7・15、附録2面)は、川村総督就任以後の総督府官房秘書課で起こった諸々の策動について、一部は明らかに人物が特定できる形で書き立てる。「 秘書課の紊乱は想像以上で」 「一枚皮を剥げば野獣の争闘場」 だと述べるこの記事は、東京の黒幕的な存在のみは明かさないのだが、これだけの詳細な情報は総督府内から出たとしか考えられない。これが検閲を通ってしまったのは、総督府内の派閥争いがそれだけ激しかったからか、と余計な勘ぐりをしてしまうほどだ。逆に、人物の特定を困難にする書き方が採用される場合もある。「 上げたり下げたり大官や有力者を手玉にとる人物は誰?」’29・6・5、5面)は、一向に世間に知られていないにもかかわらず、「上は総督さんを初(ママ)めとし総務長官や部局長は言わずもがな、府内大小のお役人連を毎日のように平気で」「自由自在に持ち上げたり、落したりして手玉に取て居る」人物がいる、と思わせぶりに記述する。情報量としては皆無に近いこの記事に、報道としての価値はほとんどない。しかし、こうした書法を採ることで、ある特定の文脈を解するインサイダー読者にはおそらく特定・推定はできたのだろうし、文脈を解さない読者にも、何かしら陰謀めいた雰囲気を総督府内に漂流させ、総督府高官にも影響力をもつ何者かの存在を示唆することはできる。これら一群の記事は、先述のゴシップ・スキャンダルと同様に、真偽の決定が難しいものばかりである。また、やはりゴシップ記事同様、特定の個人やグループに対する誹謗・攻撃に収束するような語り方が選ばれている。意図的にこうした通底性が狙われているとは思わない。だが、あやしげでいかがわしげな媒体だからこそ、確たる情報源を秘匿・隠匿しておきたい情報を、怪文書的に掲載ができることも事実である。真偽が曖昧で決定不能な記事が少なからず読まれる媒体だという位置性が、韜晦的な書法を用いた対抗的・批判的言説を散種しうる領野を拡げていると考えられるのだ。こうした間隙が「本島人」側の書き手に利用されないはずがない。「旧事新談」( ’30・8・28、8面)は、「千九百二十四五年頃、台湾文化協会の全盛時代の或る日」、「辜大人」が、たまたま列車内で「呉子瑜君」と乗り合わせたときの風景を、対話劇風に記述する。「 わしが一番癪に触るのは霧峰の献堂君始として文協一派の奴等が我輩を指して何んでも、かんでも御用の頭人だとか、政府の走狗だとかいろいろ裏宣伝」 ばかりすることだ、と嘆く「 辜大人」名は記されないが、_御用紳士〉の代名詞的存在だった辜顕栄を指すとみられる)に、呉は、それは「貴下の勘違い」だと一蹴する。その上で「貴下の前身は社会のどん底にいた一個の苦力」だが「献堂君始め霧峰の連中」は、日本の領台によって特権を失ったから「現制度に反対」している。その意味で「貴下が政府に忠実に精を抜んでることは当然過ぎる程当然の義務」だと述べた、と言うのである。記事の中には、なぜこの談話が五年後に改めて想起されるのか・そもそもこの談話を誰が聞いたのかなど、数々の疑問に答える記述は見られない。それでも、文協分裂以後の「本島人」にとって、何か問題を提起する意図があったらしいことだけは読み取れる。文脈がかなり限定される、特定の人物に向けたメッセージのような記事もある。「ドウする?此の矛盾某特高君」と題した一文(’29・6・5、5面)では、「此の間頼金_君の処へ行くと「長い間台湾に居た人よりも、此の頃渡台したばかりの人の― 106― (106 )方が、よく台湾を理解して居るから不思議だ」と言ったがこれは確に一面の真理ですネ」「御歴々として世間からは随分達観した偉い人のように思われている人物の中に、未だ領台当時の気持ちで済まし込んで居る人物がチョイ__居りますからね」とある。おそらく、「矛盾」を指摘された「某特高君」と、頼が言及する人物との間にかかわりがあるのだろうが、この記事を目にした読者のどれほどが、文脈を再現できただろうか。それでも、「本島人」に対し「特高」が何か理不尽な仕打ちを行ったのだろう、というメッセージは伝わるし、具体的に内容が記述されない以上、真偽について云々することも簡単ではない。確かに、こうした言語的実践は、明示的な反抗だとは言えない。しかし、新聞の事前検閲が義務づけられた当時の台湾において、新聞紙上に対抗的な言論をいかに書き込んでいくかは重要な課題である(_)。『新高』日文欄は、投書記事(を装った可能性もある)を含めて、多様かつ複層的な対抗的言説の場として存在していた。そしてそこには、日文欄という枠だから可能になった言語実践を確認することもできるのである。4_想像力〉の限界以上、『新高』の情報空間と対抗的言説の諸相を見てきた。最後に、ごく雑駁な形ではあるが、本稿から見えてきた問題を踏まえ、今後の議論の見通しについて述べておきたい。若林正丈は、一九二〇年代後半から一九三〇年代初頭にかけての時期を、台湾における抗日運動・社会運動の退潮期と位置づけている(_)。台湾文化協会の分裂(一九二七)、右派を中心とした「地方自治制度実現を単一目標とする」台湾地方自治連盟の結成(一九三〇)と左傾した台湾民衆党の結社禁止処分(一九三一)といった動きの中で、自治要求運動としての台湾議会請願運動は形骸化していった。若林は、「主として土着地主資産階級知識人である台湾議会設置運動の首脳者たちは、その出身階層の性格からしても、また自由主義者としての思想の面からしても、二五年頃から急速にたかまり抗日運動中の比重をましていた農民運動をはじめとする植民地大衆の諸運動に対して指導性を持つことができなかった」と指摘し、運動の中心人物たちが、総督府からの有形無形の圧力の中で「内地延長主義へのさらなる妥協」を選んでいった、と概括する(_)。だが、この「妥協」は、ある意味では、別の後退戦の始まりを意味している。運動としての抵抗が街頭から、言論のアリーナから見えにくくなることは、観点を変えれば、抵抗の軸がより巧妙な形で内部化され、日常のレベルにまで浸透することでもある。このことを考える補助線となるのが、_植民地的公共性〉という論点である。尹海東は、朝鮮の文脈で、朝鮮人側の運動を懐柔しつつ展開された総督府による〈地方制度改正〉の経緯をたどりながら、次のように言っている。「植民地的公共性は植民地権力によって支配されており植民地権力を転覆させ得る能力を持ってはいなかったが、植民地権力と対峙線を描くことはでき、日常において提起される共同の問題を通じて政治の領域を拡大していた」のだ、と(_)。実際、岡本真希子によれば、台湾地方自治連盟の要求はあながち〈後退〉とは言いきれない側面を持つ。_普通選挙〉による公民権の付与と、州・市・街・庄の自主権と財政管理権の確立等を掲げた自治連盟は、「本国並みの地方制度の実現を要求」することで、「地方自治体の運営の主導権を台湾民衆の掌中に取り返す」目論みを内包していた。自治連盟の運動は、可能的な選択肢の中で「本島人」の政治参加の機会を確保し、そこを橋頭堡とすることで、公的な政治空間の領有=盗用を試みていた、と考えられるのである。これらのことは、まさに『新高』日文欄で起こっていた事態を想起させる。日文欄に寄稿した「本島人」の書き手たちは、「内地人」たちがくり広げた日本語の議論の枠組みに一度は乗り、必要な文脈を選択的に汲み直して、独自の主張の場を確保していた。とりわけ、これ対抗的公共圏の言説編制( 107 ) ― 107 ―が新聞という、ごく日常的な媒体を舞台に行われたことは重要である。新聞は、他の印刷物・刊行物に比べて、一ページあたりのスペースが大きい。そこでは、大小とりどりの枠で区切られた情報が、その枠の大小や活字の種類などで情報としての価値や有用性を訴えかけながら、同時に、決して系統立てられず雑然とした形で並存するという特徴がある。そして、その紙面に並ぶ情報同士の論理的な一貫性は、必ずしも大きな問題とは見なされない。そう考えてみると、『新高』日文欄での対抗的言説は、新聞の形式的な特性を活用したものだ、と言えよう。実際に隣り合った/隣り合う可能性のある記事が展開する論理を取り込み、文脈を横滑りさせることで、紙面の論調をかすめ取ること。その典型的な例が、「民衆党の御用振り」(’30・6・7、9面)である。御用党の方面から、危険物扱されて居る民衆党の連中が此の頃、何を発心したのか、盛に御用振りを発揮して居るとの情報があるので、ドウしたことかと調べて見ると近く実施するだろうと期待されて居る、例の地方自治催進の為めに、各地で巡廻(ママ)講演を開いて居るとのこと。その辺の自称御用党諸君、チト見習って、せめて民衆政治教育講座でも開いたらドウ? [略]何時までもグズ__して居ると、御用のお株を民衆党へとられて仕舞う。本当の御用党と言うものは、斯う言う際に率先して飛び出して、民衆指導の任に当るものだ。わかりましたか?わかったら手を挙げ!「 恋に狂た置屋の女将」 とか、「 元気で帰った長官と局長」 といった見出しの並ぶ片隅に置かれたこの記事は、_御用紙〉批判の文脈と、日本語で教授される教室の風景を想起させる言い回しを用い、何が_御用〉性かを問い返すものとなっている。総督府当局や東京の政府は、台湾にも漸進的に自治を拡大していく方針であると言及しつつ、「本島人」からの自治要求については、「同化」の不徹底と台湾住民の「民度」を理由に、_時期尚早〉という立場を崩さなかった。であるならば、地方自治にかんして「民衆」の啓蒙・指導にあたる民衆党こそ最も当局の意を具体化しているではないか、と言うわけだ。あるいは、羅萬俥「高等遊民」(’29・6・5、5面)は、_内地〉でも話題となっていた知識階級の就職問題の根深さにふれつつ、「就中、有為な本島人青年の就職難は非常なもので、岐路に迷う青年の落ち着き場所を探してやることが急務中の急務」だ、と主張する。こうした言語実践に、_蚕食_ _浸食〉等の空間的な比喩を使うことが許されるのなら、『新高』紙上では、グラムシ的な〈陣地戦〉を可能にする根拠地が築かれていたと言えるのではないか。しかも、メディアとしての『新高』のいかがわしさが、紙面への遊戯的かつ遊撃的な介入を可能にしてもいる。李承機は、『昭和新報』『南瀛新報』と並び、『新高』の漢文欄が台湾人左翼言論にとっての避難所アジールだった可能性に言及している(_)。しかし、『新高』紙面をつぶさに見ていくと、漢文欄だけがそのような場だったようには見えない。もちろん、日文欄には、分裂を繰り返す台湾人の運動体を揶揄する記事や、一九三一年の台湾民衆党結社禁止処分について、民衆党自身の「自殺」ではないか、と無責任に述べる一文も読まれる(例えば、唐澤生「嵐の跡自殺?他殺?」’31・2・26、2面)。また、それに先立つ段階でも、文化協会・台湾民衆党・農民組合の行動を「成功の見込みなき民族闘争」「日本の国柄に対し無智であるが故」の「無茶な運動」だと非難する言説(「 国籍倒錯者の謬想台湾思想団体批判」 ’29・11・5、2面)もある。だがその一方で、「社会運動」は「或る意味に於て国家の進展、社会の向上、大衆生活を調和する為に寧ろなくてはならぬ」ものであり、「台湾の社会運動を着手」する際には、「吾々の環境や特殊事情を考察攻(ママ)究して、如何なる思想が正しくて如何なる手段方法が有効であるかを科学的に意識した後それに適切な目標策略を立てゝ突進」していこう、と戦線の立― 108― (108 )て直しを主張する議論が堂々と(?)載っている(PH生「社会運動と環境」’29・10・15、7面。同10・25、4面)。匿名の筆者は、おそらく台湾人である。この人物は、日本支配以後の台湾人による権利獲得要求の歴史を概観しつつ、「直訳的ユートピアの運動では駄目」で、「環境」「現実」に立脚した「科学的運動」こそが必要である、ゆえに「参政権問題、地方自治の完成問題の如き比較的実現の可能性を有する問題から着手して政治的自由獲得へ全力を集中」すべきだ、と主張する。当事者の考えでは地方自治獲得運動がより内在化した抵抗であるという言明と見えるが、『新高』には、別の声も響いている。「台湾社会運動の展望廃墟を乗り越えよ!」(’30・5・29、2面)という記事の書き手は、「官憲の積極的鉄血政策」に加え、幹部のイデオロギー的な先鋭化と実利を求める農民・労働者層との乖離が台湾社会運動の壊滅をもたらしたと述べ、「ブル分子とインテリ分子が、地方自治獲得を目標として更に策動して居る」様子を「ローマの廃墟そのものであり、大正十三年に於ける東京の焼跡そっくり」だ、と論断する。少し後になるが、別の書き手は、地方自治運動にかかわる「一般紳士階級」は、みな個人や団体の利害と打算で動いているだけだ、と立ち位置論での一撃を繰り出し「指導だの啓発だのとおこがましいことを言うナ」「社会運動は民衆自身の手に依ってなさるべきもので、民衆生活と交渉のない特殊階級の徒輩が独占すべきものではない」と言い放つ「裏の裏の裏自治問題を中心に民衆は、斯く叫ぶ」’30・7・10、2面)。ただ、再反論もなされていて、特に台湾社会運動の現在を「廃墟」とした先の記事には、「 「大衆の覚醒」 を過信」 して「 インテリ階級の存在を軽視」 する傾きを批判的にとらえて、「 インテリ階級」 は少なくとも「 民主政治」 が一般の人々の上に確立するまで「 地方自治の旗じるしの下に民主政治を戦い取るべくヒタ進みに進むであろう」 と予言してみせる(蒲牢生「 地方自治と智識階級の役割」 ’30・6・7、2面)。ほとんどが無署名ないし筆名で展開されたこれらの議論の宛て先は明白である。『新高』日文欄は、単に総督府や特権層に対する対抗的な言説の空間だっただけではない。「民衆」「大衆」という語を軸とも隠れ蓑ともしつつ(決して「本島人」とは明示せずに)台湾人社会運動の方向について論ずる言説のアリーナとしての顔も持ち合わせていた。おそらくそれは、既述のような、日常的な〈陣地戦〉の成果だった。言語的な抵抗とは、言語を脱領域化し、記号どうしの結合の恣意性を露呈させる詩的言語によるものだけとは限らない。しかし、『新高』日文欄での対抗的な言説実践にも、一定の限界は指摘しておかねばならない。「本島人」の書き手たちが、新聞というメディアの特質を利用し、隣接する議論の枠組みを積極的に参照・盗用していたことはすでに述べた。だが、一方で、こうした批判的な実践に応答し、別の言葉を接続した「内地人」側の書き手の事例は、管見の限り見出せていない。例えば、『新高』紙上には、たびたび「内地人」の奮起と協力に期待する言葉が読まれる。先にも出た李瑞雲は、三四回目の〈始政記念日〉に寄せて、「本島人方面は自治に対する経験尚お多少日が浅き憾みはあるが母国民は数拾年も体験し訓練もされて来たのに」自治制の議論に「腫物の気持で触れない様に沈黙を守って居るは奇怪千万」だ、と書き記す(「時代は動く完全なる自治制へ」’29・6・17、3面)。より直接的に、なぜ台湾には「領台以来三十余年来未だ曾つて内地人の民論というものを聴かない」のか、「本来新領土に於ける国家的建設は新領土内に居住して日常新附の同胞と接触する機会を比較的多く有つ母国人士の義務であり責任」ではないか、と挑発する記事もある(彭生「内地人側の奮起を望む」’30・4・3、9面)。「内地人側」と呼びかけることで言説上の立ち位置を明示するこの書き手は、一部の「特殊階級」を除いた「内地人」は、「島政に対し無能力であると言う点に於て本島人と全く同然」なのだから「本島人が島政の革新を叫び自治制促進運動を起すならば内地人側に於ても又当然これを叫び、運動を起すのは立憲治下の公民として当然の本領ではないか」と、「内地人大衆」というカテゴリーを括りだし対抗的公共圏の言説編制( 109 ) ― 109 ―て見せる。先の文での林呈録は、「出稼人」と「土着人」という対を持ち出し、真の「内台融和」の実現のためには、台湾に永住する「土着人」の立場から思惟すべきという意味の発言をしている(前掲「内台融和の弁」)。『新高』には、当時の台湾では相対的にリベラルとされた唐"}]}, "item_files": {"attribute_name": "ファイル情報", "attribute_type": "file", "attribute_value_mlt": [{"accessrole": "open_date", "date": [{"dateType": "Available", "dateValue": "2008-03-01"}], "displaytype": "detail", "download_preview_message": "", "file_order": 0, "filename": "KJ00004898631.pdf", "filesize": [{"value": "580.4 kB"}], "format": "application/pdf", "future_date_message": "", "is_thumbnail": false, "licensetype": "license_11", "mimetype": "application/pdf", "size": 580400.0, "url": {"label": "KJ00004898631", "url": "https://otsuma.repo.nii.ac.jp/record/3399/files/KJ00004898631.pdf"}, "version_id": "8d416baf-885f-4fe7-9706-53793a58ca42"}]}, "item_language": {"attribute_name": "言語", "attribute_value_mlt": [{"subitem_language": "jpn"}]}, "item_resource_type": {"attribute_name": "資源タイプ", "attribute_value_mlt": [{"resourcetype": "departmental bulletin paper", "resourceuri": "http://purl.org/coar/resource_type/c_6501"}]}, "item_title": "対抗的公共圏の言説編制 : 『新高新報』日文欄をめぐって", "item_titles": {"attribute_name": "タイトル", "attribute_value_mlt": [{"subitem_title": "対抗的公共圏の言説編制 : 『新高新報』日文欄をめぐって"}, {"subitem_title": "Discursive Formation of the Counter Public-sphere : A Study of Nitaka-shimpo Articles", "subitem_title_language": "en"}]}, "item_type_id": "1", "owner": "3", "path": ["70"], "permalink_uri": "https://otsuma.repo.nii.ac.jp/records/3399", "pubdate": {"attribute_name": "公開日", "attribute_value": "2008-03-01"}, "publish_date": "2008-03-01", "publish_status": "0", "recid": "3399", "relation": {}, "relation_version_is_last": true, "title": ["対抗的公共圏の言説編制 : 『新高新報』日文欄をめぐって"], "weko_shared_id": 3}
対抗的公共圏の言説編制 : 『新高新報』日文欄をめぐって
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名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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KJ00004898631 (580.4 kB)
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Item type | 紀要論文(ELS) / Departmental Bulletin Paper(1) | |||||
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公開日 | 2008-03-01 | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | 対抗的公共圏の言説編制 : 『新高新報』日文欄をめぐって | |||||
タイトル | ||||||
言語 | en | |||||
タイトル | Discursive Formation of the Counter Public-sphere : A Study of Nitaka-shimpo Articles | |||||
言語 | ||||||
言語 | jpn | |||||
資源タイプ | ||||||
資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_6501 | |||||
資源タイプ | departmental bulletin paper | |||||
ページ属性 | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | P(論文) | |||||
論文名よみ | ||||||
その他のタイトル | タイコウテキ コウキョウケン ノ ゲンセツ ヘンセイ ニイタカ シンポウ ニチブンラン オ メグッテ | |||||
著者名(日) |
五味渕, 典嗣
× 五味渕, 典嗣 |
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著者名よみ | ||||||
識別子 | 11323 | |||||
姓名 | ゴミブチ, ノリツグ | |||||
著者名(英) | ||||||
識別子 | 11324 | |||||
姓名 | Gomibuchi, Noritsugu | |||||
言語 | en | |||||
雑誌書誌ID | ||||||
収録物識別子タイプ | NCID | |||||
収録物識別子 | AN10272489 | |||||
書誌情報 |
大妻女子大学紀要. 文系 巻 40, p. 97-112, 発行日 2008-03 |