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きやうを筑ちく前ぜんの国くにの蘆あし城きの駅家うまやに餞うまのはなむけせし歌四首岬みさき廻みの荒磯ありそに寄する五い百ほ重へ波なみ立ちても居ゐても我あが思おもへる君(巻第四、五六八)右の一首は、筑ちく前ぜんの掾じよう門かど部べの連むらじ石いそ足たり。韓から人ひとの衣ころも染そむといふ紫の心に染しみて思ほゆるかも(巻第四、五六九)大和やまとへに君が立つ日の近づけば野に立つ鹿しかもとよめてそ鳴く(巻第四、五七〇)右の二首は、大だい典てん麻あさ田だの連むらじ陽や春す。月つく夜よよし川の音おと清しいざここに行くも行かぬも遊びて行かむ(巻第四、五七一)右の一首は、防人さきもりの佑じよう大おほ伴ともの四よ綱つな。大伴旅人送別歌四首中の二首(五六八・五六九)があり、また、巻第五に、B、大おほ伴ともの君きみ熊くま凝ごりの歌二首大だい典てん麻あさ田だの陽や春すの作さく国遠き道の長なが手てをおほほしく今け日ふや過ぎなむ言こと問どひもなく(巻第五、八八四)朝あさ露つゆの消けやすき我あが身他ひと国くにに過ぎかてぬかも親の目を欲ほり(巻第五、八八五)敬つつしみて熊くま凝ごりの為ためにその志こころざしを述のべし歌に和わせし六首序を あはせたり筑前国守山上憶良大おほ伴ともの君きみ熊くま凝ごりといふ者ひとは、肥ひ後ごの国くに益まし城きの郡こほりの人なり。年十八歳、天てん平びやう三年六月十七日を以て、相撲すまひの使の某それの国こく司し官くわ位んゐ姓せい名めいの従じゆう人にんと為なりて京都みやこに参り向かふに、天たるや不ふ幸かう、路みちに在りて疾やまひを獲えて、即ち安あ芸きの国くに佐さへ伯きの郡こほり高たか庭にはの駅家うまやにして身故たえにき。臨りん終じゆうの時に、長ちやう たん息そくして曰いはく、「伝へ聞く、仮け合がふの身は滅び易く、泡はう沫まつの命は駐とどまり難がたしといふことを。所この以ゆゑに千せん聖せい已すでに去りて、百ひやく賢けん留とどまらず。況いはむや、凡ぼん愚ぐの微いやしき者もの、何ぞ能よく逃のがれ避けむや。但し我が老親、並びに菴あん室しつに在り。麻田連陽春伝考( 1 ) ― 1 ―我を待ちて日を過すぐさば、自おのづからに傷しやう心しんの恨うらみ有らむ。我を望みて時を違たがへば、必ず喪さう明めいの泣なみだを致さむ。哀かなしきかも我が父、痛ましきかも我が母。一身の死の途みちに向かふことを患うれへず、唯ただし二親の生せいの苦に在ることを悲しむ。今け日ふ長ながく別れなば、何いづれの世にか覲まみゆること得む」といふ。乃すなはち歌六首を作りて死にき。その歌に曰いはく、うちひさず宮へ上のぼるとたらちしや母が手離はなれ常つね知らぬ国の奥かを百もも重へ山やま越えて過ぎ行きいつしかも都を見むと思ひつつ語らひをれど己おのが身し労いたはしければ玉たま桙ほこの道の隈くま廻みに草手た折をり柴しば取り敷きて床とこじものうち臥こい伏して思ひつつ嘆き伏せらく国にあらば父取り見まし家にあらば母取り見まし世の中はかくのみならし犬じもの道に伏してや命いのち過ぎなむ一に云ふ、「わが世過ぎなむ」(巻第五、八八六)たらちしの母が目見ずておほほしくいづち向きてか我あが別るらむ(巻第五、八八七)常つね知らぬ道の長手をくれくれといかにか行かむ糧かりてはなしに一に云ふ、「干かれ飯ひはなしに」(巻第五、八八八)家にありて母が取り見ば慰むる心はあらまし死なば死ぬとも一に云ふ、「後のちは死ぬとも」(巻第五、八八九)出いでて行きし日を数かぞへつつ今け日ふ今日と我あを待たすらむ父母らはも一に云ふ、「母が哀かなしさ」(巻第五、八九〇)一ひと世よには二ふた度たび見えぬ父母を置きてや長く我あが別れなむ一に云ふ、「相別れなむ」(巻第五、八九一)大伴熊凝の死を素材として山上憶良の作品との一群に、二首(八八四・八八五)があり、さらに、『懐風藻(2)』に、C、外從五位下石いは見みの守かみ あさ田だの むらじ陽や春す。一首。年五十六。五言。 とうの江あふみの守かみの「裨ひ叡えの山の先せん考かうが舊きう禪ぜん處しよの柳りう樹じゆを詠よむ」の作に和わす。一首。 江あふみは惟これ てい里り、裨ひ叡えは寔まことにしん山ざん。山靜けくして俗ぞく塵ぢん寂しづみ、谷たに間しづけくして眞しん理り專もはらにあり。於ああ穆うるはしき我が先せん考かう、獨ひとり悟さとりて芳はう えんを闡ひらく。寶ほう殿でんに臨のぞみてかまへ、梵ぼんしよう風に入りて傳つたふ。烟えん雲うん萬ばん古この色、松しよう柏はく九きうとうに堅かたし。日じつ月げつ荏じん苒ぜん去されど、慈じ範はん獨り依い々いなり。寂せき寞ばくなるせい禪ぜんの處ところ、俄にはかに積せき草さうのに爲なる。古こ樹じゆ三さん秋しうに落ちり、 かん くわ九くぐ月わつに おとろふ。唯ただ餘のこす兩りやう楊やう樹じゆ、孝かう鳥てう あした夕ゆふへに悲しぶのみ。(藻一〇五) と、藤原仲麻呂とのかかわりを示す一首(藻一〇五)の作者として登場する。いわゆる万葉後期の神亀・天平年間に活躍した大伴旅人・山上憶良、藤原仲麻呂らとの関わりを通して麻田陽春の伝記を考究してみることが小稿の目的である。二、その氏姓名について麻田連陽春の出処は、『万葉集』中、①巻第四、五七〇の左 に大典麻田連陽春②巻第五、目録(八八四)大典麻田連陽春為大伴君熊凝述志歌二首③巻第五、八八四の題に大典麻田連陽春と三カ所に見え、『懐風藻』に、④目録外從五位下石見守麻田連陽春⑤本文(一〇五)題に外從五位下石見守麻田連陽春と二カ所に見え、『続日本紀』に、⑥神亀元年五月十三日辛十三日未正八位上答本陽春麻田連⑦天平十一年正月丙十三日午正六位上麻田連陽春外從五位下と二カ所に見え、『東大寺文書之五』の、大宰府牒案に、⑧天平三年三月卅日從六位上行大典麻田連陽□と、計八カ所に見える。時間的順序からみて、⑥が初出で、この時「答本」から「麻田連」への賜改氏姓があり、名の「陽春」の表記は、― 2― (2 )⑧を除いて一貫していることから、氏姓名の表記「麻田連陽春」を妥当とする。(一)氏「麻田」について前記の⑥の「改氏姓」記事は、神亀元年(七二四)二月甲午詔にまた官つかさ々つかさに仕つかへ奉まつる韓から人ひと部ども一ひとり二ふたり人に、その負おひて仕つかへ奉まつるべき姓かばね名な賜ふ。とあり、「賜姓は本人の申請によるのがふつう。従ってこのような詔があっても、多少の時日を要する。この場合は五月辛未に実施(3)。」され、⑥の記事となったもので、「韓人」は、「唐・高句麗・百済・新羅などから渡来した諸氏(五月辛未条(4))。」で、 妙観(河上忌寸)・王吉勝(新城連)・高正勝(三笠連)・高益信(男 連)・吉宜(吉田連)・吉智首(吉田連)・ 兄麻呂(羽林連)・賈受君(神前連)・楽浪河内(高丘連)・四比忠勇(椎野連)・荊軌武(香山連)・金宅良(国看連)・金元吉(国看連)・高昌武(殖槻連)・王多宝(蓋山連)・高禄徳(清原連)・狛 乎理和久(古衆連)・呉粛胡明(御立連)・物部用善(物部射園連)・久米奈保麻呂(久米連)・賓難大足(長丘連)・胛巨茂(城上連)・谷那康受(難波連)・答本陽春(麻田連)の二四人である。「答本陽春=麻田連陽春」について(5)、『日本書紀』によれば、天智二(六六三)年白村江の戦いで、羅唐連合軍に大敗した百済国の人々が、多く渡来し、その中の一人とみられる答本氏として、天智天皇四年(六六五)秋八月に、達率答たふ ほん春しゆん初そを遣つかはして、城きを長門国に築つかしむ。と、同氏の「答 (本)春初」が見える(6)。さらに、同天皇十年(六七一)正月、百済からの渡来人(亡命貴族)の多くの人々に叙爵した記事中に、是この月に、大だい錦きむ下げを以もちて佐さ平へい余よ自じ信しん・沙さ宅たく紹せう明みやう法のりの官つかさの大おほき輔すけ。に授さづく。小せう錦きむ下げを以ちて鬼くゐ室しつ集しふ斯しに授く。学ふみの職つかさの頭かみ。大だい山せん下げを以ちて、達だち率そち谷こく那な晋しん首す兵つは法ものに閑ならへり。・木もく素そ貴くゐ子し兵法に閑へり。・憶おく礼らい福ふく留る兵法に閑へり。・答たふ ほん春しゆん初そ兵法に閑へり。・ ほん日にち比ひ子し賛さん波は羅ら金こむ羅ら金こむ須す薬くすりを解しれり。・鬼くゐ室しつ集しふ信しん薬を解れり。に授さづく。小せう山せん上じやうを以ちて、達だち率そち徳とく頂ちやう上ぢやう薬を解れり。・吉きち大だい尚しやう薬を解れり。・許こ率そち母も五ご経きやうに明あきらかかなり。・角ろく福ふく牟む陰おむ陽やうに閑ならへり。に授く。小せう山せん下げを以ちて余あたしの達だち率そち等ら五十余人に授く。童わさ謡うたありて云いはく、橘たちばなは己おのが枝えだ々えだ生なれれども玉たまに貫ぬく時とき同おやじ緒をに貫ぬく(紀歌謡一二五)といふ。「答 春初兵法に閑へり。」とあり、「兵法」とは、戦争の方法(7)(陣法・軍法)か、兵器(武器)に関して習得していたということで、『懐風藻』の大友皇子(藻1)の伝に、年二十三、立ちて皇太子と爲なる。廣く學士沙さ宅たく紹せう明めい・塔たふ本ほ春しゆんしよ・吉きつ太たい しやう・許きよ\tそつ母も・木もく素そ貴き子し等ををきて、賓ひん客かくと爲す。太子天てん性せい明めい悟ご、雅もとよりはく古こを愛このます。筆ふみてを下おろせばしやうとり、言ことに出いだせば論ろんと爲なる。時に議ぎするひと其の洪こう學がくを なげかふ。未いまだ幾いくばくもあらぬに ぶん藻さう日に あらたし。壬じん申しんの年の亂らんに會ひて、天命 とげず。時に年二十五。とあって、「学士」は「学者」のことで、「文学士」(『懐風藻』序)のことで、中国語の詩文に長けた人のことを言うとすれば、「兵法」に麻田連陽春伝考( 3 ) ― 3 ―かぎらず詩文の才があったものと思われる。春初・陽春より後年の人に天平勝宝三(七五一)年十月丁丑条に正六位上から外従五位下に叙せられた「答本忠節(8)」があるが、この人は、神亀元年(七二四)二月甲午詔に応じて改氏姓を申請しなかったものとみえる。それは何故か。一つには申請漏れで、本人か役所のいづれかが忘失したのか、あるいは、本人が故意に本氏「答本」に固執したのかさだかには出来ない(9)。春初・陽春との親縁関係も不明である。(二)姓「連」について⑥の神亀元年(七二四)五月辛未条の賜姓「連」は、『日本書紀』天武天皇十三年(六八四)十月一日制定の「八色の姓」の第七位「連」に当るが、実際に賜姓が行われたのは、真人から忌寸までの上位四姓のみで、「臣・連」の賜姓記事は見当らない( )。以後、『続日本紀』養老四年(七二〇)五月壬戌条に「白猪史の氏を改めて 井連の姓を賜ふ。」という例があるが、「麻田連○」を賜ったのは「答本陽春」一人であり、後に麻田氏で「連」姓を名告るものは、①天平宝字八年(七六四)正月乙巳条に、正六位上麻田連金生外従五位下。同月己未条に、外従五位下麻田連金生左大史。②神護景雲元年(七六七)二月丁亥条に、大学に行幸して釈奠の時、座主直講従八位下麻田連真浄従六位下。延暦二年(七八三)正月癸巳条に、正六位上麻田連真浄外従五位下。以後、主税助・大学博士・伊勢介・大学助教を歴任。なお、『日本後紀』延暦十六年(七九七)正月甲午条に、「五位巳上を宴す。束帛を賜うこと差有り。外従五位下麻田連真浄従五位下」とある。③延暦三年(七八四)十二月巳已条詔に、長岡京造営功労者として、正六位上麻田連 賦外従五位下。延暦四年(七八五)七月己亥条に、外従五位下麻田連 賦左大史、以後、典薬頭・右京亮を歴任し、延暦八年(七八九)三月戊午条に、外従五位下麻田連 賦山背介。の三名を見ることができる。(三)名「陽春」について表記「陽春」に異同はないが、読みについては異同あり。『萬葉拾穂抄』は、大典麻アサ田タノ連ムラシ陽ヒ春ハル『萬葉代匠記』精 本は、陽春カ先 外國ヨリ來リテカ。陽春ヲ比波留ト訓シタル本アレト、姓ヲ合セテ按シ、二字ノ連綿ヲ思フニ、唯ニ讀名ナルヘシ『萬葉童蒙抄』は、あさ田のむらじはるやすとよまんか。又はをはるか、『萬葉集略解』は、大典麻あさ田だの連陽春。此名やすと訓まんか。『萬葉集攷證』は、陽春は音に訓べし。『萬葉集古義』は、大オオキ典フミヒト麻アサ田ダノ連ムラジ陽ヤ春スとあって、『拾穂抄』「ヒハル」・『童蒙抄』「はるやす・をはる」と和読したが、『代匠記』「音ニ讀名ナルヘシ」・『攷證』「音に訓べし」とあるから、陽y ongヨウヤウ春ch unシュン「ヤウ(ヨウ)シュン」と音読するか。あるいは、『略解』「ヤス」・『古義』「ヤス」と訓むか。以後、「ヤウシュン・ヨウシュン」と訓むものに『萬葉集全注巻第四』(木下正俊)― 4― (4 )は、「七五〇左注」で「やす」と傍訓をし、[考]で、陽春は渡来人で、はじめ答とう本ほんの陽よう春しゆんといった。神亀元年(七二四)正八位上であった時に麻田連姓を賜った。と説明しているのによれば、日本に帰化して麻田連と改氏姓したので、名「陽春」の読みを音読「ヨウシュン」から和読(?) 「やす」に改めたというのか。「やす」は、音訓いづれか不明。『萬葉集全注巻第五』(井村哲夫)は、「八八四題」で「やうしゅん」と傍訓し、[考]で、続日本紀神亀元年(七二四)五月辛しん未び条に、正八位上答とう本ほん陽よう春しゆんに、麻あさ田だの連むらじの姓を賜うとある。とし、「やうしゅん」「ようしゅん」と二様に音読している。『日本古代氏族人名辞典』は、立項で「やす」と読み、解説に「『ようしゅん』ともいう」とする。『日本古代中世人名辞典』は、「ようしゅん」としている。「ヤス」と訓むのは、『略解』・『古義』・『新考』・『全釋』・窪田『評釋』・『総釋』・『全 釋』・佐佐木『評釋』・『私注』・金子『評釋』・『注釋』・『釋注』・『全歌講義』・『全解』。他にテキスト類では、朝日古典全書本・大系本・日本古典文学全集本・新潮古典集成本・新編日本古典文学全集本・新大系本。辞典事典類では、佐佐木事典・和歌文学大辞典・万葉集歌人事典・日本古典文学大辞典・有精堂萬葉集講座別巻・和歌大辞典・日本古代人名辞典(東京堂版)・万葉集歌人集成。文庫本では、旺文社・講談社・角川。とあって、大勢、通行本類では「ヤス」と読んでおり、それに従うべきか、ただし「ヤス」は音訓いづれなのか訛音か約音か慣用音なのか疑念が残る。ちなみに上田萬年他『大字典』に、陽春ヤウ・シュンはる。李白「陽春召 我以 煙景 大塊假 我以 文章 」「陽春白雪」ヤウシュン・ハクセツ楚國の歌曲の名。高尚なる詩を稱す。宋玉の「對 楚王問詞」より出づ。『廣漢和辞典』に、陽春ヨウシュン①あたたかな春の時節。[楚辞、厳忌、哀時命]願 ヘドモ壹タビ見 ント陽春之白日ヲ兮、恐ラクハ不 ラン終 ハ乎永年ニ。②楽曲の名。[文選、張協、雜詩]陽春ハ無 ク和スル者 巴人皆下節ナリ。[注]\t曰ク、郢中之歌ニ、有 リ陽春・巴人ノ二曲 陽春ハ高曲、和スル者甚ダ少ナク、巴人ハ下曲、和スル者数千人。[陽春白雪]ヨウシュンハクセツ楚の国の歌曲で、高尚な音曲の名。[文選、宋玉、對 フ楚王ノ問ニ]其ノ爲 スヤ陽春白雪ヲ、國中属シテ而和スル者数十人。とあるのによれば、『楚辞』・『文選』に出典を求め得る好字嘉名である、「ヤウシュウ・ヨウシュン」と読むのを妥当としたい。三、その閲歴について(一)出自・家系その出自について、初めて典拠『新姓氏録』を指摘したのは、契沖の弟子、海北若冲の『万葉作者履歴()』、(下、七、連)に、麻田連陽春伝考( 5 ) ― 5 ―麻田連陽春第四廿八帥大伴 天平二年入京之時大典麻田連陽春第十五廿六大伴君熊凝歌二首―作姓氏録云麻田連出 自 百済国朝鮮王淮 也○神亀元年五月辛未正八位上答本陽春賜 姓麻田連宝字元年七月戊申為 問 薬方 詣 答本忠節宅 ○天平十一年正月丙午正六位上勘未麻田連陽春授外從五位下○懐風藻云外從五位下石見守麻田連陽春一首六年五十五言和 藤江守詠裨叡山先考之旧禅処ノ柳樹 之作此見 詩藤江守誰哉比叡山傅教大師不 開祖 元来蘭若見 右宰府梅花宴此人不 見不審とある。たしかに、『新 姓氏録(\t)』右京諸蕃下の「麻田連」条と同文である。これ以後、『万葉集』の全注釈者・テキスト編者等が、この若沖『万葉作者履歴』を活用したものは皆無といってよい。何故か考うべし。『和歌文学大辞典』(執筆、小島憲之)に、百済国朝鮮王淮の子孫とあるが、典拠『新 姓氏録』のこと明記せず。有精堂版『萬葉集事典』も、百済系渡来人。出自は百済国朝鮮王淮。とし、典拠を明記しない。『日本古代氏族人名辞典』(一九九〇年十一月)に、『新 姓氏録』には百済国朝鮮王淮の後裔とみえる。と、初めて典拠を明記した。つまり、若沖以来、何十人、何百人という所謂、万葉学者・古代史学者が、『新 姓氏録』を参照していなかったことを語っている。ただし、早く、中西進『万葉集の比較文学的研究』(一九六三年一月)は、「姓氏録には『麻田連百済国朝鮮王淮の後なり』とあり」と指摘している。また、新日本古典文学大系本『続日本紀』(全五巻、一九八九年三月.一九九八年二月)の校注者(青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸)も参照しており、誰もが必ず引用する『続日本紀』神亀元年五月辛未条の注、補注(二、五一二頁、補注八六)に、麻田連は姓氏録右京諸蕃に、百済国朝鮮王淮より出づ、と記す。と明記している。また、内田賢徳「大伴君熊凝哀悼歌」(『セミナー万葉の歌人と作品第五巻大伴旅人・山上憶良(二)』二〇〇〇年九月)に、「新 姓氏録(右京諸蕃下)によれば、百済系である。」としている。ただし、いずれも若沖『万葉作主履歴』を参照しているのかはわからない。ともあれ、その出自は「百済国朝鮮王淮」であり麻田連氏の始祖は「答本陽春=麻田陽春」ということになる。春初と陽春の関係は、中西進『万葉集の比較文学的研究』(一九九六年一月)が「答本春初は大友の学士となるが、その子答本陽春は」とし、『万葉集歌人集成』で「子とも考へられる」とし、『日本古代氏族人名辞典』が、「春初の子か」、佐伯有清編『日本古代氏族事典』は、「春初の子孫であろう」とし、『日本古代中世人名辞典』は「春初の子」と断定しているが、その根拠は説明なし。春初のことは、天智四年(六六五)八月築城家、天智九年(六七〇)前後学士天智十年(六七一)正月兵法家とあって、天智十年正月以後の消息不明。おそらく、天智天皇十年十二月三日に天皇は崩御し、翌年弘文元年壬申の年(六七二年)の乱があり、この時、春初は築城家・兵法家・学士として近江朝廷(弘文天皇)側にあったと思われるから、戦場に出て敗死したかとも考えられる()。陽春との親疎(父子関係)を考えると生き延びたかとも考えられるので、今少し、保留しておこう。(二)年齢・閲歴について付係累陽春の年齢について明記されているのは、Cに挙げた『懐風藻』に「年五十六」とあるのみ。「年五十六」は行年とみるのが定説である()。これを基点として、その年齢を考えるのが常套とされている。― 6― (6 )題詞中の「藤江守」が、藤原仲麻呂であることは、『続日本紀』天平十七年(七四五)九月戊午条に、民部 正四位上藤原朝臣仲麿を兼近江守。とあるのによって分明できる。新日本古典文学大系本『続日本紀三』の補注に、本条以降、仲麻呂は史料上では紫微内相在任中の天平宝字二年六月まで近江守を兼ねていたことが確認される(天平宝字二年孝謙天皇施入勅[古二五―二二九頁])それ以降も兼官を続けていたと思われるが、史料上は不明。とあるのによれば、仲麻呂の近江守時代は天平十七年(七四五)から天平宝字二年(七五八)ということになる。さて、『懐風藻』の編集が終了したのはその序に、時に天平勝宝三年歳辛卯に在る冬十一月なり。とあって、「天平勝宝三年(七五一)十一月」であることが分る。とすると、藤江守の時代は、これ以前のこととなり、天平十七年(七四五)から天平勝宝三年(七五一)の間となる。この期間に、陽春は、外従五位上石見守を極官として「年五十六」で没したと推定して、その没年と出生について推定してみれば、①天平十七年(七四五)没。持統四年(六九〇)生。②天平二十年(七四八)没。持統七年(六九三)生。③天平勝宝三年(七五一)没。持統十年(六九六)生。となり、中間をとって、②天平二十年(七四八)没。持統七年(六九三)生とみるのが、①③いずれとも三年の差であり、穏当( )なところであろう。②を基に簡単な年譜を作ってみると、持統七年(693)生1歳神亀元年(724)五月32歳正八位上答本陽春に麻田連。天平二年(730)十二月38歳A、大宰大典。旅人上京の時、餞歌(4・五六九、五七〇)天平三年(731)三月三〇日39歳七、八月頃従六位上行大宰大典B、大宰大典大伴君熊凝歌二首(5・八八四、八八五)天平十一年(739)一月十三日47歳正六位上から外従五位下天平十七年(745)九、十月頃53歳C、外従五位下石見守藤江守の「稗叡山の先考が舊禪處の柳樹を詠む」の作に和す。一首(藻一〇五)天平二十年(748)56歳没となる。この年譜にその時代の社会的政治的出来事を埋めて考えて行くことになるが、次に、いくつかの問題点を考えてみよう。 持統七年(693)生。親・出生地 神亀元年(724)までの閲歴 神亀元年(724)時、正八位上としての官職天平二、三年(730731)時、大宰府大典の任期と仕事 天平十一年(739)外從位下昇叙の前後\t天平十七年(745)石見守と『藻』一首(仲麻呂との関係)妻子について以下、七点について概略考察してみよう。麻田連陽春伝考( 7 ) ― 7 ― 親については、答本春初とする説がある。「春○初―陽春○」からの一つの推定であるが、春初の閲歴は先に見たように天智十年(六七一)以後の史料がないので、あくまでも推定・仮定の説となるが、一先ず、親子と見ておこう。すると、春初の年齢も考えてみなければならなくなる。陽春が持統七年(六九三)生、あるいはその前後三年の出生として、その頃、父親は生存していた可能性があるのか、あったとして何歳位なのか。春初が日本に渡来したのは天智二年(六六三)前後、その時二十歳代(あるいはもう十歳ぐらい上かもしれない)と仮定して、持統七年(六九三)には五〇(あるいは六〇)歳代となり、可能性は十分である。出生地は、父が官職にあれば、当然、新益京(藤原京)内か近辺。あるいは母親が百済からの亡命貴族の娘だとすれば近江京付近であった可能性が高い。本貫地を麻田の氏名は、後の摂津国豊島郡麻田村(大阪府豊中市麻田)の地名にもとづくものか。[佐伯有清『新 姓氏録の研究考證 第五』]のちの摂津国豊島郡麻田村(大阪府豊中市麻田)の地名にもとづく氏名か。[『日本古代氏族事典』]とする説があるが、答本(のち麻田)氏と摂津とのかかわりは薄いものと思われる。地名「麻田」も史料には中世以降であることも根拠として不足。近江京とその周辺および藤原京とその周辺が妥当なところであろう。 はセットで考えてみる方がよいかもしれない。神亀元年(七二四)五月に、「正八位上」とあること。一つには、これは初叙位であるとすると、蔭位か。「選叙令38」によれば「従五位の嫡子に従八位上」とある。春初は天智十年(六七一)正月に、「大山下()」を授かっている。養老令の「従六位」に相当する。築城家・兵法家・学士の才能を以って、昇進すれば、神亀元年(六〇歳代)頃までには「正五位あるいは外従五位下」ぐらいにはなっていたかと推定できる。としても、神亀元年に陽春の初叙位正八位上はあり得ない。とすれば年二十一か二十五歳で初授位として、二十一は和銅六年(七一三)。二十五は養老元年(七一七)となり、神亀元年(七二四)、三十二歳に正八位上となったものと見るのが妥当であろう。「正八位上」の官は、中務省・式部省・治部省・民部省・兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省の小録、大宰府の少典が相当するが、父春初の才芸を受けついだとすれば、式部省大学寮・治部省玄蕃寮・兵部省のいずれかに出仕したものかと推定したい。天平二、三年に大宰大典として大宰府に居たことは確実であるが、赴任時をいつとみるかで旅人の「梅花宴歌」(5八一五.八五二)とのかかわりを考えることになる。この宴に陽春の名・歌がないので、「宰府梅花宴此人不\t見不審()」とされ、この宴以後の着任とする説(\r\n)があるが、「大典」の職掌は、「職員令」大宰府条に、大典二人。掌らむこと、事を受うけたまはりて上抄せむこと、文案を勘署し、稽失も検かむがへ出し、公文読み申さむこと。少典二人。掌らむこと大典に同じ。とあって、公文書の作製・受理・上申など文書の記録保管などを主とする実務中間管理職であり、極めて多忙な職で、梅花宴に名の見えないのは、公務に当っていたか、宴の進行裏方か記録係か、歌の被講役であったか。公務のためと見るのが妥当であろう。この宴に大監伴氏百代・小監阿氏奥嶋・小監土氏百村・大典史氏大原・小典山氏若麻呂の名があるが、大監一人・大典一人・小典一人の三人が欠けているのはそのためであろう。任期四年とすれば、この天平二、三年の前後、天平元年から四年までか、神亀五年から天平三年までとなろう。年三― 8― (8 )十六歳から四十一歳の間ということになる()。天平十一年(七三九)一月十三日正六位上から外従五位下に昇叙。四十七歳。天平三年に「従六位上」とあって八年かかっているから、その間の天平七年(七三五)前後に「正六位上」となったのであろう。官職は、中務省大丞・図書寮助・大学寮助(博士)・民部省兵部省大丞・中国の守(石見守)のいづれかであって、 天平十七年(七四五)までの間に「石見守」であった可能性が高い。が、『国司補任』は天平勝宝三年(七五一) 「この年以前見任(懐風藻)」としている。陽春以後の守は、天平宝字七年(七六三)九月十五日任従五位下奈紀王・神護景雲二年(七六九)七月一日任従五位下豊国秋篠・宝亀元年(七七〇)十月廿三日任従五位下川辺東人、以後、従五位下のものが任命されていることからみて、天平十一年(七三九)一月十三日外従五位下昇叙後に石見守となったとみるのが穏当であろう。任期四年とすれば、天平十四、五年頃までであったろう。とすると、天平十七年には帰任して在京していたことになろう。仲麻呂が父祖ゆかりの近江守となり、父武智麻呂ゆかりの比叡山に詣で作詩した時、同行したか、仲麻呂帰京後にその詠詩を見る機会(仲麻呂宅での詩宴)での和詩とみることができるだろう。そこには、陽春の父、春初と、仲麻呂の父武智麻呂との何らかの親交。たとえば、『武智麻呂伝』(『藤氏家伝』)に見える和銅八年(七一五)に比叡山に登り、柳樹一株を栽え、従者に「嗟乎、君ら、後の人をして吾が遊び息ふ処を知らしめむ」と謂ったという、従者の一人であったかと推定できる。そして、今、その子供同士が互いの親を思い唱和するという場面を想定したい。 妻子については、ほとんどわからないが子供として候補に、①天平宝字八年(七六四)一月己未条、外従五位下麻田連金生を左大史に任。②神護景雲元年(七六七)二月丁亥条、大学に幸みゆきして釈しやく奠でんしたまふ。座主直講従八位下麻田連真浄に従六位下を授く。③延暦三年(七八四)十二月己巳条、(長岡京)造宮に労有る者に爵を賜ひ、正六位上麻田連 賦外従五位下の三人が『続日本紀』に見える。①麻田連金生は、他に史料なく、この時、四十代半ばか。②麻田連真浄は、延暦二年(七八三)正月、外従五位下となった。以後、主税助・兼大学博士・伊勢介・兼大学助教。『日本後紀』延暦十六年(七九六)甲午条、「五位巳上を宴す。束帛を賜うこと差有り。外従五位上麻田連真浄従五位下。」とあって、内位の従五位下に昇叙()している。③麻田連 賦は延暦四年(七八五)七月左大史、以後、典薬頭・右京亮・山背介。三人の外従五位下叙位時に、金生と真浄との差は十九年の開きがあるので、兄弟関係とみることが出来るか。真浄と 賦は一年差であるので、兄弟か従兄弟かであろうか。金生・真浄という名は春初・陽春という名との異和感はないが、 賦は異和感があり、別系かと思われる。とすれば、一年差が了解できる。とくに、真浄の官歴(大学の直講・助教・博士)を一覧すると、春初(学士)・陽春(和歌・漢詩の才)の子孫としても妥当だといえようか。真浄の初出、神護景雲元年(七六七)は、陽春の生存・年齢が確認できる天平十七年(七四五)に五十三歳であったから、その差、二十二歳で、十分に子供とみることも可能である。真浄の兄とみられる金生は真浄にくらべて、他に見えないところを見ると宝字八年以後、早くに没したかと思われる。四、おわりに大宰府時代の大伴旅人・山上憶良、さらに藤原仲麻呂との文芸的関係については、別稿「麻田連陽春の和歌と漢詩「麻田連陽春伝考」続」(「大妻国文」43号、二〇一二年三月)に譲ったが、概略、麻田連陽春伝考( 9 ) ― 9 ―麻田連陽春の伝記的一覧は果たしかと思う。「関係年譜」を付すべきところ、考半ばのため掲出できなかった。後考を俟つこととしたい。注(1) 『萬葉集』の作品は、新日本古典文学大系本『萬葉集』に拠り、訓読文を掲げ、原文は省略した。(2) 『懐風藻』の詩は、日本古典文学大系本『懐風藻文華秀麗集本朝文粹』の訓読に拠った。以下、『懐風藻』の引用は同書に拠る。(3)新日本古典文学大系本『続日本紀二』一四三頁注二〇。(4)注(3)に同じ。同頁注二一。(5)注(3)に同じ。一五一頁注三五の補注八六をも参照。(6)次いで、「達率憶礼福留・達率四比福夫を筑紫国に遣して、大野と椽き、二ふたつ城のきを築かしむ。」とある。(7) 『日本書紀』天武天皇十二年(六八三)十一日丁亥条に、「諸国に詔して、陣法を習はしむ。」・持統天皇七年(六九三)十二月丙子の条に、「陣法博士等」とあり、「戦術に習熟した専門家をいうのであろう。」(新編日本古典文学全集本『日本書紀③』五四二頁注一)(8) 『日本古代人名辞典』参照。『続日本紀』の記事は省略。藤原仲麻呂との関係を考える必要のある人物である。参考論文に、福原栄太郎「橘奈良麻呂の変における答本忠節をめぐって」(「続日本紀研究」二〇〇号。一九七八年十二月。)がある。名「忠節」に、百済国貴族の矜恃とみる・・べきか。(9) 『続日本紀』天平宝字二年(七五八)八月丙寅条に「外従五位下津史秋主ら卅四人言さく、「船・井・津は本是れ一祖なり。別れて三氏と為る。その二氏は連の姓を蒙り訖りぬ。唯、秋主ら改姓に霑うるほはず。請はくは、史の字を改めむことを」とまうす。是に、姓を津連と賜ふ。」とあり、さらに、延暦十年(七九一)正月癸酉条の 井連道依・船連今道ら上言して改氏姓のことも参考になろう。また、唐人の「袁晋 」は天平七年(七三五)に、十八、九歳で来日し天平神護二年(七六六)十月癸卯、舎利の会に唐楽を奏るを以て正六位上袁晋従五位下、神護景雲元年(七六七)二月丁亥、音博士従五位下袁晋 従五位上、以後大学頭他を歴任し、宝亀九年(七七八)十二月庚寅、賜姓「清村宿祢」まで唐名のままであった例も参考になろう。(10)ただし、『日本書紀』天武天皇十二年(六八三)九月丁未条に、直・首・造姓の三十八氏に「連」賜姓、同十月己未条に、吉士、造、史、県主姓の十四氏に「連」賜姓の前例があるが、答本(あるいは麻田)氏は見当らない。(11)海北若冲著『万葉作者履歴』(宝暦元年(一七五一)以前の成立。)は、別名『万葉集作者履歴』・『万葉集人物履歴』ともある。万葉集中の人名を、天皇以下諸王・諸姓に分類して、その履歴を考証したもの。その原本は散佚したが、写本は数点散在していることから、かなりよく参照されたものかと思われる。[佐佐木信綱『萬葉集事典』考證・作者(七三八頁)・久松潜一『契沖』・『国書総目録』・川上富吉「万葉集人物伝の研究―とくに、帰化系歌人について―」(「私学研修」85号。一九八〇年十一月)参照。]国文学研究資料館所蔵のマイクロフィルムの中、刈谷図書館蔵本『万葉作主履歴』三册本写本に拠る。その奥書を次に写しておく。右萬葉作主履歴上中下三册以故田中道麻呂所蔵本誂人書寫畢天明八年戊甲十月二十二日稲懸大平花押文化六年己巳五月廿四日書寫畢安田廣治花押安田廣治の蔵本をかりて人にあつらへて書写せり弘訓(12)佐伯有清『新 姓氏録の研究』本文 ・考證 、参照。(13)壬申乱後の処置の一つに、『日本書紀』天武天皇元年(六七二)八月条に、「高たけ市ちの皇み子こに命みことのりして、 江あふみの群臣まへつきみたちの犯あやまつ状かたちを宣のらしめたまふ。則すなはち重おもき罪つみ八人を極刑しぬるつみに坐おく。仍よりて、右みぎの大臣おほまへつきみ中なか臣とみの連むらじ金かねを浅あさ井ゐの田た根ねに斬きる。是この日に、左ひだりの大臣おほまへつきみ蘇そ我がの臣おみ赤あか兄え・大おほき納言ものまをすつかさ巨こ勢せの臣おみ比ひ等とと子うみ孫のこ、あはせて中臣連金が子こ、蘇そ我がの臣おみ果はた安やすが子、悉ことごとくに配な流がす。以余これよりほかは悉に赦ゆるす。」とあるから、春初の生存も充分に可能性がある。ちなみに、巨勢比等の子、奈麻呂は、天平元年(七二九)三月、正六位上より外従位下に叙せられ、勝宝五年(七五三)三月三十日の薨― 10― (10 )伝に「小治田朝の小徳大海が孫、淡海朝の中納言大雲比等が子なり」(『続日本紀』)・『公補任』に「比等之子」とあり、『萬葉集』に、勝宝四年(七五二)十一月二十五日、新嘗会の肆宴の応詔歌六首中の一首(19・四二七三)を残している。(14) 「年五十六」を死亡時の年齢とみるものは、朝日古典全書・大系・和歌大辞典・日本古代氏族人名辞典・日本古代中世人名辞典。中西進『万葉集の比較文学的研究』は「懐風藻によると没年五十六歳。かりに天平二十年五十六歳とすると持統七年の出生となる。」と推定している。(15)注(14)中西説。(16)春初の百済における官位「達率」は、「百済十六官品」の第二位で、定員三〇人であった。日本との位階対照では「従一位」に相当する。(新編古典全集本『日本書紀③』付録参照。)(17)注(11)に同じ。(18) 『萬葉集全釋』に「梅花の宴の作者中に見えないのは、その後に任命されたのであろう。」(19)天平二年(七三〇)十二月大納言兼帥となって上京、翌三年(七三一)七月二五日没。後任の帥の任命は『続日本紀』天平三年(七三一)九月癸酉条に、「正三位大納言藤原武智麻呂兼大宰帥とす。」とあり、この直後、武智麻呂・仲麻呂父子と陽春との関係が密となったと考えられる。(20)高島正人「奈良時代の麻田連氏付答本氏」(「立正史学」38号、一九七四年九月)は、『続日本紀』記事に限定したために、「内位または外従五位上への昇叙が一例も見出されないことが特徴的である。」としたが、『日本後紀』によれば、内位の「従五位下」に昇叙していることが知られる。麻田連陽春伝考( 11 ) ― 11 ―\r\n"}]}, "item_files": {"attribute_name": "ファイル情報", "attribute_type": "file", "attribute_value_mlt": [{"accessrole": "open_date", "date": [{"dateType": "Available", "dateValue": "2012-03-01"}], "displaytype": "detail", "download_preview_message": "", "file_order": 0, "filename": "KJ00007815899.pdf", 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KJ00007815899 (419.2 kB)
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Item type | 紀要論文(ELS) / Departmental Bulletin Paper(1) | |||||
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公開日 | 2012-03-01 | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | 麻田連陽春伝考 : 萬葉集人物伝研究(八) | |||||
タイトル | ||||||
言語 | en | |||||
タイトル | A Biographical Study on Asada-no-Muraji-Yaushiun | |||||
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言語 | jpn | |||||
資源タイプ | ||||||
資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_6501 | |||||
資源タイプ | departmental bulletin paper | |||||
ページ属性 | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | P(論文) | |||||
論文名よみ | ||||||
その他のタイトル | アサダノムラジ ヤス デン コウ マンヨウシュウ ジンブツデン ケンキュウ 8 | |||||
著者名(日) |
川上, 富吉
× 川上, 富吉 |
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著者名よみ | ||||||
識別子 | 4 | |||||
姓名 | カワカミ, トミヨシ | |||||
著者名(英) | ||||||
識別子 | 5 | |||||
姓名 | Kawakami, Tomiyoshi | |||||
言語 | en | |||||
雑誌書誌ID | ||||||
収録物識別子タイプ | NCID | |||||
収録物識別子 | AN10272489 | |||||
書誌情報 |
大妻女子大学紀要. 文系 巻 44, p. 1-11, 発行日 2012-03 |