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"人間社会は生命に限りある個々の人聞から成り立っており、社会の存続のためには新しい成員を常時補充してゆかねばならない。そのため、妊娠・出産という行為は当事者である女性のみならず、集団全体にとっても重大なことと見なされ、いずれの社会にもこれらを取り巻{1}く観念、信仰、犠礼、呪術が見出される。なかでもクlMV71ドは、「妻の出産に際して失が婆に代って産縛に就く脊妙な習俗」として民族学者や人類学者の関心を悲き、過去一世紀以上にもわたって華々しくはないが息長く議論されてきた。人は異文化に理解し難い「奇妙な」風習や観念を見出した時、その意味するところは何か、何故そのような習俗が行なわれているのかと問うであろう。「奇妙な」風習や観念との避過の体験が少なければ少ないほど、その疑問は想像力とファンタジーをかき立てずにはおかない。近代西欧に発達した諸科学の洗礼を受けた人々はいかなる現実も明快に、客観的かつ科学的に把握できるという信念を持つ傾向にあるが、彼らがそのように把握できない「現実」に接した時、その「現実」を実現している人々を無知襲妹、非合理性、原始心性などによって規定し、その習俗を想像と推測をもって理解しようとする。クlグ馬場子優71ドもまさにかつてその稲の状況を作り出したテ1マのひとつであったが、ここでは諸説の紹介は省き、本小論のテlマに関連した理論のみ簡単にあげておくことにする。まず、クlMVァ1ドを父親と子どもの間には霊魂的な連続性があるという信仰に基づいた交感悦術の一形態と見なした初期のタイラi〈2〉(開・∞・吋三O円)やフレーザーQ・C・m,EN巾円)の説、出産時に危険な状態にある女に代って頑健な男が産揮に就いて怒沼訟を附着する儀礼で{3)あるとするクロlりla・c・2と巾同)説等、宗教進化論的視点からクiヴ71ドの意味づけが議論された。また、父親が母親の類似行為を行なうことに着目した文化進化主義者パッハォlフェソQ・】・∞宮町-opロ)や後期のタイラーは、クlJV71ドを男が自分の子どもを認知し、父子関係を社会的に主張する手段であると見なし、父子関係をこうした特別な方法で明確化することが必要とされるのは父系的認識が要請されてはいるが未だそれが確立されていない社会に於てであるか(4}ら、母系(権)社会から父系(権)社会へ移行しつつある段階の社会(5)に見出される習俗であるという議論を展開している。彼らのグlグアlドの挺史的、社会的機能に関する所説は、母系(権)制から父系(総)制へという一系的発展段階論の証左としてこの習俗を位置づけたため、進化主義批判の波によってたらいの水と共に流されてしまった感がある。その後、マリノアスキー3・H〈・宮川同一一口ot号mw一)が、父性- 53-は母性のように受胎、妊娠、出産という生理的プロセスによって擁立されるのではなく、社会的承認あるいは契約による同意によって樹立{6)されるものであることを考えれば、クーグ71ドの機能は父親による母親への象徴的問一化によって社会的父性を総立することであり、そ〈7)れは家族という制度の不可欠な部分である、と社会的父性論を展開した。そして近年、ダグラス(冨・ロog何日目的)もグldV71ドが父子関{8}係の証としての機能をもっと主張して、かつてのマリノアスキーや進化主義者たちのクlグァ!ド解釈を再燃させている。従来、クiグァlドという言葉に包旧関されてきた現象は非常に多岐にわたる。広義には、グーグァlドとは婆の出産前後および分娩時に夫が妻の行為を模倣もしくは代替し、妻と類似の行為を行なう習俗であると規定される。任娠中の恵也、分娩位側、出産後一定期間の臥床ならびに出産前後の食物や行動の制限などの萎の行為にパラレルな夫の行為としてのク1ヴァlドにも、従って、多様な形態がある。妻の妊娠中に夫が歯痛、頭痛、吐き気、固まい、衰弱、食欲不振、食欲過多{9)などの生理的症状を呈するものをはじめとし、衰の分娩が始まると失も就床して苦痛にうめいたり、分娩後、夫があたかも産婦ハ夫?〉であるかの如く一定期間臥床し、人々の手厚い看護や慰撫を受けるなど、「真のクlヴァlド」と称せられる狭義のものから、狩猟、漁拐、刃物類を使用することなど日常活動の一部が禁思とされたり、一定の種類の食物を摂取することが禁ぜられるなどのさまざまな形態が広畿のク1グァ1ドの範時に入れられる。小論では広務に捉えることにするが、生理的症状は小論が対象とする地域については報告がないのでここでは考察の対象に入れない。また、広畿のクlヴァlドの分布範聞は広く、古代の歴史識から現代の民族誌まで渉猟すれば、痕跡をも含めてヨーロッパ、アジア、アフ(叩}リヵ、オセアュァ、アメりカにまでその拡がりを見ることができる。そもそもこの習俗が関心を集めたのは、十七世紀にヨーロッパ人が、南アメリカ北部に於けるインディアンの出産の時、妻は分娩後まもな〈U)く通常の生活に戻り、夫が妻に代って産縛に就くという習俗を報告して以楽である。その後、民族誌資料が蓄積され、出産前後には失の臥床のみならず、さまざまな食物禁忌や行動に関する禁則が設けられており、しかも、夫ばかりでなく委もそれらに服すること、また、失と婆がそうした行動規則にどの程度拘束されるかは文化により多様性があることが明らかになってきた。初期のヨーロッパ人が失の行動にのみ注目したのは当時の彼らの文化環境から言って当然のことであろう。彼らにとって、分娩した女が産婦仲に就き、出産前後には食生活や日常活動に関していくつかの禁制に取り囲まれるのは、女が出産するという生理的事実からして当然のことであり、殊更記述するに仰しないほど明白な都実であったのだ。しかも、出発点で男の関与があったとは言え、その後の妊娠、出産という一連の過程は男とは物理的に何の関わりもなく進行するものである。それなのに何故、夫が萎の妊娠、出産の過程で妻がとるはずの行動をとるのか。本論文の問題意識も起点はこのような初期ヨーロッパ人のナイーブな疑問に重ね合わせることができると思う。それは私の個人的偏見から出発しているのかもしれない。私の所論は、母子の紳は妊娠・分娩・附乳という楠乳類以来の生物学的諸条件に深く叙.さしたものであるのに対し、父と子という関係は人間が人間となって以来学習してきたも(ロ}のであるという前提に立っている。そうした前提に立てば、同一の行為であっても妻の場合は生理学的事実が導き出した自然的行為であるが、夫による行為は自然の枠からはみ出した文化的、人為的行為である。何故、失が妻の類似行為をとるのか。しかも、料理、育児、生業活動などにおける妻(母)役割の遂行i!すなわち妻への協力iーではなく、妊娠・出産という人間のライフ・サイクルに普遍的な重要な節目で女と子どもに結びつく行為を。私はこの小論において、グーグァlドという文化的制度が一体何を知らせたいのか、すなわち、この習俗が諸観念や神話をはじめとする世界観・宇宙観に表現された父子関係と相互に補強し合いながら、ど- 34.ーのような社会的意味を担っているのかを主眼点に考察したい。資料はクldγ71ドが高度に発達し、「ク1グァlドのセンター」と言われている南アメリカ大陸北東部ギアナ高地からアマゾン川流域低地帯にかけての諸民族ll言語グループヱ一一回えばカりブ語系諸族とトゥピ川グアラニ語系諸族l!の民族誌に主に依拠している。この地域はクlグァ1ドが近年に至っても比較的明瞭な形態で行なわれている地域のひとつである。ただし、「センター」とは言われていてもこの地域のクlグァlドに関する締衝な民族誌的データの蓄積は不足の感を免れえない。クーグァlド資料の多くは、男の行動にのみ注目した記述であり、全体文化の中での位置づけが不明確であるばかりでなく、誕生儀礼の全過程を貫く民族的世界も見えてこないが、その中から相対的に詳細に記述されている社会のみここでは扱った。それでもなお民族誌聞の均質性には問題があることを断っておきたい。人聞の生命の創造の仕組みは、受胎の生理的メカニズムが科学的に解明された現代においてさえ神秘的側面を払拭できない。およそ一世紀前、「未開人」は性交と妊娠の因果関係について無知である、という仮説がハlトラツドa・m-民間町立言仏)、ロス〈円、.HN05)、フレーザーなどの聞で主張され、スベンサ13・印匂226、ギレン(吋-H・2宏ロ)、マリノアスキー等のオーストラリア、メラネシアの人類学的調査により実証された形となった。スベソサーとギレソが調査を行なった中部オーストラリアのアランダ族では、女の体内に祖霊の再生で(l)占める精霊が入りこみ受胎すると信じられており、マリノアスキーの報告でもトロプリアンド諸島では受胎の原因は精霊の活動であると言わ{2〉れているという。トロプリアンド諸島では、死者の霊は「あの世」である死者の烏「トゥマ」へ行き、再び現世に戻りたくなった時、精霊一児になり、トロプリアンドに行って女の体内に入る。その場合、女の頭から入り、押し寄せてくる血液にのって下方へ移動し、ついに胎内に落ちつくという説や、海を漂流していて泳浴に来た女の体内に入るという説などいくつかの生殖理論があるが、いずれも母体は胎児が育つ場所を提供し、その血液が胎児を育てると思われている。一方、男〔3〉親の役割は胎児の通路を聞けることのみであるという。このように再生信仰と結びついて受胎の原因を霊的存在の倒きに求める文化は広範囲に見られる。だがりlチ(開・戸Fgnu)が指摘するように、彼らは性交と懐妊の因果関係について全く無知であるが放(4)に受胎に趨自然的存在の介在を認めるのではない。性交と妊振に関する知識を有していてもなお、知的理解を超える神秘的な精神的作用の介入を求めるのである。例えば、性突と懐妊の関係が認識されていても、性交が生命ある胎児の綴妊のために必要にして十分な条件だとは考えられていない場合- 35ーがある。その一例としてハイアット(「戸国宮門門)はバゼドウ(出・切器包o乏によるオーストラリアの民族誌から興味ある事例を引用している。パゼドウの見問によれば、アラリジャ、アラング、ディエりその他の諸族では人々は性交と懐妊の関係を認識してはいるが、子どもに翠魂をもたらすものを神秘的で観念的な力に帰している。彼らはこの力は男線形の石に宿っていると信じており、新しい生命を産み出すために、また彼ら自身の生組力を守るためにこの極の石を崇拝し、(5)儀礼を行なっているという。彼らはすなわち、懐妊には性交が必要だが、胎児が人間として誕生するためにはそれだけでは不十分で、ある神秘的な力の導入を必要とすると考えているわけである。南アメりカ北部のインディアン諮社会における民俗生殖理論を通覧すると、彼らは「無知」ではないが、知っているのは性交と妊娠の聞の漠然とした関係であって、生物科学的な生地のメカニズムではない。彼らには継続的性交のみが受胎と胎児の成長をもたらすという考え方が見られる。ヒバロ族の生殖理論がそのひとつの例である。彼らは受胎のためには性交が必要であることを知っている。しかし、一回の性交のみでは十分ではなく、満月と次の新月の聞に数回繰り返すと地殖の力をもっ新月が生借地過程のプロモーターとなって胎児が発生すると信じている。彼らによれば、その後も性交を続けていれば新月のたびに月の呪術的力によって胎児の肉体は少しずつ付加され、やがて月四が絞っ{6)とすっかり成長して誕生するという。カブリ語系のアカワイオ放も、性交が懐妊を埠くことも女の月経が止まったら懐妊していることも完全に認識している。しかし、妊娠は一回の性交のもたらすものではなく、月経が止まる前からの継続的な性交によって胎児が形成され、さらにその後、性交の都度胎児の肉体が付け加えられて成長してゆくの(7}だと考えている。こうした生殖理論はある程度現実を反映しており、純粋なド〆マとも言えない。リiチも言うように、「無知であること」{S)と「知識があること」とは相対的な問題であり||私たちが「生殖のメカニズムを知っている」というのも当然そうだ1i彼らが性交と懐妊の関係について「無知である」とは言えないのである。また、ギアナのカリブ語系インディアノC主、動植物の護符を食べると子どもの4M61 〈9}身体がある神秘的な方法で母親の体内に入ってゆくと言われているが、そのように性交が懐妊の必要条件であるとは考えず、組自然的存在が女の体内に直接入ることによって妊娠することもあると考える社会もある。要するに彼らの生殖理論において必要不可火なのは超自然的力の作加なのである。カルステン(戸間同円印丹市ロ)によれば、アマゾン流域低地帯からギアナ高地にかけての諸民族の聞では、人間の生と死は悠久な時間の流れの中の移り変る二つの相を指しているにすぎないと考えられている。「死」は生命の消滅ではなく、露魂のひとつの存在形態から他のそれへ(叩)の推移を意味し、死後、人聞の身体を離れた霊魂は一定の場所||例えばトリオ族のコスモロジーによれば世界の果てに、死後、人間の身体{U)を離れた霊塊たちの集まるたまり場があるというllへ行く。そこでしばらく過ごした後、また人聞の身体に宿って「生」の状態を過ごす。こ(ω)\u0027 うして一家魂は〈生lv死←生i:・・:〉と永遠に漂泊を続けるのであるcこうした霊魂が新しく形成された肉体に結びついて初めてその肉体は生命を得、人間として誕生する。新しい肉体への霊魂の付与に関してはアマゾン流成熱待降雨林の諸民族の聞では父親が張要な役割を果たし、彼が自分の霊魂の一部もしくは他の霊魂を子どもに授けると言われている。例えばトゥピ語系のウルブ族の生殖理論によれば、父親が子どもの霊魂の綬け手である。父親になるまでは男の霊魂は影か幻影にすぎず、睡眠中の夢や白昼夢の中で俳姻し、体を現わす対象物を探している。その霊魂が人聞に最もよく見えるのは子どもに宿った時のみとされているから、子どもというものは男にとって自分自身の霊{同M)魂の具体的証明であるということになる。アカワイオ族では、性交時に男の霊魂が子どもに入ってゆく、出生時に父親の霊魂の一部が子ど〈日)もに入ってゆく、と異なる二説が語られるが、いずれにしても父殺が霊魂の授け手とされている。- 36ー父親は霊魂の授与者ではない場合でも、受胎と同時に子どもに付与された霊魂の保護養育者となる。例えばカりブ語系のワイワイ族の問では、子どもは受胎の時に霊魂を授けられるが、三才ぐらいまでは霊魂は子どもの身体にしっかりと結びついておらず、しばしば浮遊したり飛び回ったりするといわれている。そのような状態の子どもの霊魂{M)の統制には父親が決定的に重要な役割合』果たすのである。ところで我々は、「女が子どもを産む」ということを自明の理としている。しかし、闘有の顕一況や形姿、気質等を持つ『ずどもの誕生を解釈する時、人々は、単に子どもは母親から生まれるという生理的事実のみでは満足せず、さまざまな理論を作り上げている。子どものサブスタンス(身体的構成要素)に関する理論をとりあげてみても、子どもの「種」は母親が持っている、父親から母親に与え一られる、超自然的存在が母体に入れる、母胎は「緩」を置いておく場所にすぎない、母親は「種」に養分を与えるのみである、父親の精液が「種」に養分を与えるのだ、超自然的存在が「種」を育てるのだ、等々、多種多様な見解が見られる。諸民族がそれぞれの宇宙観・世界観を基に想像力を駆使し、思い巡らせてきたことが推察される。アマゾン川流域低地帯からギアナ高地にかけての諸民族に一般的に見られるのは、男が「卵の真の所有者」であり、女は僻化する場所を提供しているにすぎないという理論である。困に、パカイリ語で「卵」と「父親」を指す言葉は同一の語源から派生しているが、それは、父親が「卵の哀の所有者」であるから子どもは「小さな父親」であり、(は叫}従って卵は父親であるという論理に基づくものである。父親が真の生殖的親であるという観念は神話においても語られている。ウライマ〔文化的英雄:・筆者註〕はかつて烏の卵を持っていた。ある日、彼は道で二人の女に出会った。二人は卵を見て欲しがったが、彼は拒んだ。彼女らはなおも卵を欲しがり、ウライマの後をつけていって請うた。ウライマが断ると、彼女たちは卵を奪い取ろうとし、三人がつかみ合いの喧嘩を始めたので卵は割れてしまった。ウライマは女たちに言った、「お前たちがこんなことをしたのだから、今後ずっと苦労の径はお前たちについてまわる,たろう。今まで卵は男たちが持っていたが、これからは女がそれを暖めて僻化させなければならない」と。こ(M叩)のような訳で今日、女が卵をかかえるようになったという。21アナのカリブ語系民族〕天地創造の頃、女は妊娠もしなければ子どもを産むこともなかった。マイア〔集落の守護霊・:筆者註〕がひとりで子どもを造っていた。彼が土器の査の中に射出し、ふたをして待っていると、査の中からガリガりという音が聞こえてくる。これで子どもがすっかり出来上ったことがわかり、取り出すのである。子ども造りは一種の呪術なので、子どもが造られている間は決して査の中をのぞき込んではならない。マイアは常日頃からそのことを人々に忠告していた。ところがある白、ひとりの女がマイアの小屋の前を通りかかった時、大きな査の中からガリガリと引っ掻くような物音が聞こえたので、彼女は好奇心にかられてふたを聞け、中をのぞいてみた。直ちに子どもは死んでしまった。そして数日後、府側臭が漂い始め、事の次第を知ったマイアは激怒して、赤ん坊をその女の腹の中に投げつけて言った、「思い知ったか、詮索好きな女め。今後はお前たち女が子どもを産まなければならない。その時お前たちは苦痛な聞に会うだろう」と。それからというもの、女は子どもを体内に抱えたまま九ヶ月間を過ごし、さらに分娩の時には苦痛に坤くように〈げ)なったという。勾, qu〔ウプル族〕右記の神話は比較的詳細に採集された数少ない生殖に関する神話のうちの二例だが、ここから、アマゾン川流域低地帯からギアナ高地にかけての地域のコスモロジ1の中で、「子どもを造る」という所撲は本来、男の分野に入れられていることがわかる。彼らは月経と妊娠の関係については知識があり、月経がなければ||初経前であったり閉経後であればll妊娠しないことを知っている。それにもかかわらず、子どもは男が造るのであると主張する。彼らにとって、女はまさに、植物を育てる土壌のようなもの、すなわち入れ物として子どもを体内に預かり養育するだけである。ここに、霊魂的な父子関係のみならず、サプスタンシ十ルにも父子関係を強調しようとするイデオPギーを我々は認めない訳にはいかない。何故、それほどまでに父親強調が必要とされるのだろうか。ただし、これは労によって組問られる、いわば公的な神話で、さらに、性交後、女の小水から子どもは生まれたとするもうひとつの神話もある(H豆島・hzs。後者は女性によっておられる非公式な神話であろう。個別家族の浮上ここでは、アマゾソ川流域低地熱獄降雨林地帯からギアナ高地にかけての三つの社会の民族誌を中心として、社会・文化とタlグァlドの関わりあいを考携する。社会的父性の確立ポリビア東・部のアマゾン川支流域の低地熱帯雨林に住むシリオノ族は狩猟、漁拐、採集、焼畑農耕という混合経済を基盤に生活している。単系出自集団はなく、最大の社会集団であるパソドはふつう数十名から構成され、単一の大きな共同家屋を作って居住する。バンドはいくつかの必方居住的拡大家族から成り、それは共同家屋の内部の一区画なまとまって占有している。拡大家族の下位分節である個別家族の生活は、紘大家族が占有する空間のうちの一附に夫婦のハンモックを設え、そのそばに炉を作ってそこを中心に営まれる。この個別家族が最小の社会的かつ経済的単位であるが、個別家技を包摂する艦大家族を単位とする経済的協同性も非常に重要である。食物の分配、農耕労働の協同、採集活動や男たちの狩猟・漁傍活動さえもこの舷大家族が単位となることが頻繁である。妻方居住制の放に、女たちは結婚後も父母や姉妹たちとの生活上の連畿が続くうえ、@ハンドが内婚の単位であって、しかも阪方交文イトコ婚(男は母方オジの娘と、女は父方オバの息子と結婚)が行なわれており、ひとつの兄弟群が同一拡大家族定構成している姉妹群のところへ婚入することが多く、兄弟どうし(lvの協力が婚入後も継続するのである。乾挙にパンド組織が緩み、一二週間ないし一ヶ月間ほど離散して狩猟行や採集行に出る場合も砿大家族が単位となる。では舷大家族が生産・消費の単位かというと、そのように断定することもできない。ホルムパlグ(〉-m-図。一ヨσ今何〉は、基本的な性別分業による経済的単位は個別家族であるが、鉱大家族は- 38ー非常によく協力し合う、という記述の仕方をしている。また、夫が捕獲した獣肉は必ずしも拡大家族内で分配されるとは限らず、分配権を(2)持つ妻に渡された後、個別家族内で消費されることも多いという。以上のことを考えると、シりオノ社会の倒別家族は拡大家族とは明確に異なる機能を持つひとつの社会単位であるというよりも、むしろ、両者の問には社会的機能の連続性、未分化性が存在すると言った方が適切であろう。ところで、シリオノ族の人々の社会関係を複雑にしているのが集団的な性的特権関係である。この社会では、夫は妻の「姉妹」に対して、妾は夫の「兄弟」に対して性的接近の権利を持つ。この「姉妹」「兄弟」には類別的キョlダイも含まれるから、大体、一人につき八(3}人から十人ぐらいの潜在的配偶者がいることになる。こうした性的共有状況の下ではもちろん生理的父子関係を確然とさせることは困難であるが、社会的父親(ベイタl) は確定されねばならない。分娩後、生児の「父親」と目され、「父親」であると自認する男が生児の鵬務を切断し、その後、生児の母親と共に一一一日間のクlヴ71ドに入る。子どもは出生直後は極度にかよわくて病や死に陥りやすい。また親と依然として密接な関係にあるので、親の行動の影響を被りやすいと考えられている。そのため、この期聞は生児の父母は共同家屋の中の彼らのハンモックに臥床し、食物禁忌を守りながら静かに過ごさねばならない。三日経っとク1グァlド期聞は終り、通常の活(4〉動が許される。生児の「父綴」であることを認知しない男は腕都宮切るのを拒絶し、クーグ71ドに服することを拒否する。ホルムバーグが遭遇したのは次のような事件であった。エオコという男は、妻のひとりが分娩する日の早朝、分娩を知っていながら仲間と狩猟に出かけた。妻は午前八時に女児を産んだが、麟帯は「父親」と目されているエオヨが切断せねばならなかったので、赤坊は腕帯や胎盤をつけたまま地面に放置された。午後五時を過ぎてもエオコは帰って来ない。ついに日が沈む頃、彼は帰って来た。しかし産婦にも生児にも目もくれずに、獲物の獣肉を第一妻にわたしてすぐに自分のハンモッグに般になり、半時間ほど第一一裂に手足のとげ抜きをさせていた。エオコの態度から麟帯を切る意志のないことが明らかになったので、女たちが集まって来た。その時、エオコの親族のひとりが、彼はこの女とはすでに「離婚」したのだから子どもは自分の子ではないと言っている、と言った。すると産婦の女性親族のひとりが歩み出て、人々の前で大声でエオコに腕帯を切るように要求した。エオコはこれらのことには注意も向けず、ハンモックに寝そべったままタパコをくゆらすばかりだった。夜のとばりがおり、あたりは真陥になった。産婦の女性親族たちはエオコに、脚附帯を切るように、と迫り統けた。かれこれ一時間ほど経ったころ、漸くエオコは立ち上がり、手早く\u0027身体を洗ってから赤坊の腕世怖を切った。これで迎論的にはその生児が彼の子どもであることを認めたことになる。しかしながら、彼は、切断の前に、この子どもは自分の子ではないが、この子が死なないように自分が麟殺を切るだけだ、と強く断言するのを忘れなかった。当然彼はその後のクーグァードも実行せず、母子の健康を気にかけることもなかった。そして、あの女とは少し前に「離婚」した〈5)のだからもはや何の関係もないのだ、と言い続けたという。女性たちがエオコに迫ったのは生児の社会的父親としての認知である。彼は女たちに屈して生児の聴講切断だけはするものの、それはその子どもの生命を救うだけのためだと断言し、社会的父親であることを認めた場合に行なうべきクlグァ1ドは一切行なわない。シリオノの事例からグlグァlドは生児の社会的父親を確定する手段であることが明らかであろう。しばしば言及されるように、こと父親に関しては生理的父親(ジエニタl)と法的・社会的父親(ペイタl) は必ずしも一致するとは限〈6)らない。特に、アマゾン川流域低地帯からギアナ高原にかけての諸社会のように婚外性享受が容認されている社会では生理的父親は不明白であることが多く、母親の法的夫が子どもの社会的父親となる。彼ら- 39一は第二章で述べたように、胎児のサブスタンスの原料は男が提供し、それが母胎内で成長する、そして継続的な性交により子どもの成長に必要注材料が漸次付加されてゆくという民俗生一処理論を持つ。そうした理論から見れば、子どもを産んだ女と交わった全ての男がその子どもの出生に貢献したもの||すなわち「生理的父親」ーーと考えら(7)れ、彼女が最も頻繁に交わった男i!子どもは彼から最も多くを得て(8)いることになるーーが主たる「生理的父親」と見なされるのは当然である。しかしながら、婚外性享受がごく普通に行なわれているとは言え、多くの場合それほど長期間続くわけでもなく、懐妊および胎児の発育のために必要だと考えられている継続的接近をするのは概して法的失であるから、一般には母親の夫が子どもの主たる「生理的父親」(9}と見なされる。主たる「生理的父親」が母親の法的失ではないことが明白である場合は、その「生理的父親」の子どもに対する権利は無効となる。妻の生殖力に対する総利は失が優先的に持つので、母親の法(凶}的夫が子どもの社会的父親と認定されるのである。要するに妊娠の原悶を作った哀の生理的父親は言及されず、社会的父親が確定されねばならない。そしてク1グァlドに服するのはこの社会的父親なのであ(U}る。彼はク1ヴ71ドを実行することにより、「私がこの子どもの父親である」と公言し、「子どもをなしたのは彼だったのだ」と公に認められることになる。現らかにクlグァ1ドは社会的父性を認知し、父子関係を公的に認める手段であると言えよう。無論、出産時の介助や諸準備に夫が関与することも父性を主張するひとつの手段となり得るが、神話や諸観念を含む宗教的シンボリズムの中に位位づけられた習俗としてのク1グァ1ドに服することによって、考え得る最も明白な方法で子どもを自分のものであると主張する試み||それが実際に子どもを分娩する斐の出産前後の行為の象徴的模倣や代替行為であったりするーーを行なっていると解釈することができる。父母の性別規範に基づく相互補完的行動ワイワイ族も腕畑農耕と狩猟・漁拐を中心とする混合経済に基盤をおく。単系出自集団はなく、重要な社会的集団は妻方居住的拡大家族で、これがひとつの社会単位をなし、ひとつの集落を桃成している。この拡大家族は数十人から成り、円形の大きな共同家屋に住む。共同家屋の内・部では各個別家族がそれぞれの炉を中心にハンモッグを設え〈印)た一区画を占周する。婚後居住規則は規範上は妻方居住だが現実には必ずしもそれが守られているわけではないロ夫婦の居住場所は婚姻時に夫方親族と喪方親族の聞での論争点となり、失による矯資としての労働奉仕の期間の問題と絡んで双方で駆け引きが行なわれ決定される。だが、少くとも婚姻後一年間は護方に住み、夫は妻方親族のために労働を提供するのが現実のようである。婚姻は専ら両方交叉イトコ婚が行なわれている。交叉イトコはシリオノ族と同様、潜在的配偶者であり、男から見て要の「姉妹」(類別的姉妹である平行イトコを含む)は、そして女から見て夫の「兄弟」(類別的兄弟である平行イトコを含む)は性的接近の権利が容認されている間柄である。また、一夫多妻婚も、一一安多夫婚も行なわれているから、正式な配偶者も潜在的配{日)偶者も含めて男も女も同時に複数の者と性的特権関係にある。ワイワイ族では出産に先立つこ、三ヶ月頃から、胎児の母親と彼女の法的失はその霊的要素が胎児にとって危険性があるといわれる大型獣と魚類の食事制限を始める。そして、分娩が近づくと、共同家屋か〈M〉ら少し距離を位いて建てられた産小屋に夫婦共に移動する。分娩の二週間後には夫婦と生児は共同・家屋に戻り、彼らのハンモックを中心とした生活を再開するが、その後もさまざまな禁忌を守らねばならない。ワイワイ族は子どもは受胎の時点で霊魂を吹き込まれると考えてい{時}る。この霊魂は生後三才ぐらいまでは子どもの身体との結びつきが弱く、しばしば身体から脱け出して父親や母親の後を追う。時には父親の背中にのり、また母親の艇にのったり腕に抱かれたりしてついて行く。父親や母親が遠出をすれば子どもの霊魂もついて行き、あちこち2- 40-飛びまわる。そうしているうちに迷子になったり、災難に巻き込まれたりする。そうなると子どもは病に陥って死ぬのである。この年令の子どもを「霊魂を失いやすい者」と彼らは称し、両親はできるだけ家に留まり、危険を避けねばならない。とくに子どもにとってパグ、野ブ夕、シカなどの大型獣、フクロネズε¥ リスなどの小型獄、コンゴウイソコ、コンドル、オオギワジなどの大型鳥類、タイガ1フィッシュなどの魚類の精霊は危険である。子どもの親と接触するだけで親を通して子どもの霊魂を身体から追出し、それに取って代ってしまうからである。そうなると子どもは換き、発熱し、死ぬから、子どもの霊魂の保護と統制をつかさどる父親はその種の動物を食べることも捕獲することもできない。従って父親は狩猟・漁燃が禁じられるわけだが、そればかりでなく木登り、家造り、穴掘り、野焼き等、通常の男子の主な活動が禁忌となる。また、母親もなおしばらくは授乳によって身体的なつながりが続くから獣肉を食べることはできない。母親はその他に綿紡ぎ、前下げ布織りなどが禁じられる。このように親と子の聞の霊魂的紐帯の放に親への超自然的作用は子どもへも影響を与えるので、子どもの霊魂が親の後を追いかけず、自ら進んで子どもの身体に収まるようになる三才ぐらいまではーーその頃、子どもは自分自身の肉体と霊魂を持つ独立した、完全な人間存在となる||親は食物{凶)の種類や行動の制限を受けるのである。コルソンが人類学的調査を行なったアカワイオ族はワイワイ族のすぐ北方に住む民族である。文化的にもワイワイ族と非常に類似しており、両方交文イトコ婚を行ない、萎方居住制をとる双系社会で、焼畑農耕、狩猟、漁拐を生業とする。アカワイオ族においては、出産前の禁忌事項の内容と目的には夫と妻とで若干の差異が見られる。妻が注意しなければならないことは、難産を起こすといわれる数種類の動物(パク、ホウカンチョウ、シャクケイ、へソイノシシ)の肉の禁食のほか、彼らの文化が恥として嫌っている双生児の出生を避けるために、変則的な形をしたパナナを食べない、生児の容貌、形姿、その他の身性に悪影響を与えるといわれる行動をとらない(例:・鹿肉を食べると生児の首が異常に長くなる。食事中、ナイフをロに入れたり、ピンから飲み物を飲むと生児は唖になる)などである。これに対して夫は、胎児や生児の死や病を惹き起こす超自然的存在(特に動物霊)を刺激してその注目をあぴたりしないように(例・:へピやジャガー、ピューマ、パγサl等を殺すと出生後、子どもは病気になる)、とくに分娩が迫ったら、日常活動を停止{げ)して家のm中で静穏に生活しなければならない。すなわち、おおよそ要は生児の身体的変則状態をもたらす行動を避け、他方、夫は生児の霊魂的変則状態をもたらす行動を避けると言うことができる。夫と妻はこのように、子どもの出生を前にして生児の霊魂的要由来と身体的要紫の庇穫を分担して努めるのである。これに対して分娩後は夫も妾もほ立同様の行動が規定されている。夫婦は共に分娩直後からハンモァクに臥床し、外界から遮断されて静かに過ごす。生まれたばかりの生児の霊魂はまだ生児の身体に弱々しく付着しているにすぎず、依然として両親の行動に大きく左右されるから、両親は周辺にいて生児に病気をもたらしたり死に至らしめたりするカをもっ超自然的存在の注目を避けるよう行動しなければならないのである。母親は農作業も家事もしてはいけない。父親も外出をせず、叫附穂を守って過ごす。父親は子どもへの霊魂の授け手なので霊的要素が依然として連接しており、子どもは父親の行動の影響を特別に強く被りやすいので、とくに父親は行動に気をつけねばならない。例えば、父親が斧で伐木すると子どもの霊魂が切断され、鋸を使うと鋸の霊が子どもを切ってしまう。銃を使えば子どもの霊魂が撃たれる。父親が森の中に入ると子どもの霊魂もついて行って迷い子になる、等々。これらの行動禁忌は勝惜の落ちる頃までて-一週間は続く。この期聞はまた、親が動物の肉や魚を食べるとそれらの一室が子どもに危害を加えるので食べてはならない。そして腕裕が脱落する頃、霊魂は子(日}どもにしっかりと定着するので両親は通常の生活に戻るのである。- 41ー以上のように「クlグァ1ドのセンター」と一世田われるアマゾン川流域熱帯降雨林地殺においては、出産習俗は父親のみが単独で行なうのではなく、原則として父親と母親がそろって行なうものであることが明らかになったが、表面上は同一のように見える彼らの行動も、実は相互に随伴的で対応したものであり、基本的に相互補完性が見られる。父親の行動は動物霊や刃物類を始めとする道具の霊など超自然的存在から生児の霊魂を保護することが第一義的な目的であるが、それに対応して母親も獣肉bz食べないなど、子どもの霊的要紫の庇護に努(叩}める。また、アカワイオ社会について明織に報告されていることだが、母親の行動禁患の主要な目的は子どものサブスタンシゃルな属性{輔副)の安全と確保で・あり、それに呼応して父親も食物禁忌を守る。きわめて単純化して言えば、母親は日常生活的、世俗的世界で子どもとの強い紐帯を保持し、それに対して父親は霊的、宗教的世界で子どもとの強い緋によって子どもの鑑魂を庇護・統制する。しかし同時に、それぞれの領分において父親と母親の行動は相互補完性を持つ、ということになるであろう。ところで、基本的には同一原則に基づきながらも相異なる表象としてあらわれる点も指摘されねばならない。この点に関してはフオフク〔幻)がワイワイ族とアラワク語系諸族の出産儀礼を比較して論じている。ワイワイ族の社会では産後、生児の父親は狩猟・漁携を行なうことは禁忌とされている。何故なら、狩猟・漁拐の対象となる動物霊がワイワイ族の宗教的シンボリズムにおいては生児の健康に危害を加える存在であり、狩猟および漁掛活動をする父親を通して子どもに影響を与えると考えられているからである。狩猟と漁携はワイワイ族の男の主要な労働分野であり、これらが禁じられれば彼らの活動の大部分が剥奪されることになるから、家の中で、あるいはハンモックに就いて静かに過ごすことを余儀なくされる。一方、母親の主たる労働分野である世耕とタピオカ造りは禁忌とはされていない。彼らのシンボリズムの中では組物には危険を悲き起こす霊的要紫はないからだ。従って母親は産後まもなく農耕も家事も再開することになる。この型一のクl《n}グ71ドはトゥピHグアラニ一語系諸族にも見られる。他方、アラワク語系諸族のように織物霊がシンボリズムの中で顕著な性絡を付与されている社会ではどうか。フオックはニムエンダジュ(の・255Eとひ〉によるパリクール族の例をひいて説明している。パリクlルの父親の場合、生児の一接的要素とのつながりが強いのは他の文化と同様で、子どもに危容を与える量の宿る木(例・:パンヤの木)を切り倒してはいけないなど多くの禁忌があるが、狩猟・漁拐は産後まもなく再開する。一方、母親は産後二ヶ月聞は、身辺の日常的な軽い家事を除く全ての労働ーーその巾心は品作栄と農作物を取り扱う仕郁ーーから述.さかっている。この社会のシンボリズムにおいては動物量のことは全く諮られず、純物霊が危険かっ有力な存在として特有の性格を付与をれているのである。従って農緋を主要な労働分野とする(幻}女は生産活動への復帰が失に比べてはるかに遅いということになるcこのように、子どもに危険をもたらす超自然的存在がいずれの性の分担とされる労働分野に結びついたものかにより、生児の父親と母親の「ひきこもり」(あるいは「臥床」)の期間の相対的な長さが決まるのである。いわゆる「真のクlグァlド」と言われる、産後まもなく母親は通常の労働を再開するのに対して、父親は「ひきこもり」を続けるという形態のものはワイワイ型のク!グァlドを指して言ったものと理解することができよう。- \u002712ーク14γ71ドには社会によってさまざまな形態、方法、期闘が見られるが、それぞれの社会の生業形態、労働に関する性分業規範、宗教的シンボリズムなどの中に位低づけられたものとしての多様性を示している。しかしながら、いずれの形態をとろうとも、クlグ71ドは、所与のものとしての母子関係に対して、父子関係およびその純帯の強さを儀礼的に表象したものである。出産後一定期間、生児の父と母は共同体の他の人んべから雌隔し、非日常的状態に身を置いて生児の安全と健康のための一切の責任を全うする。他の誰も、彼らのキョlダイi!従って生児の類別的な父母ーーもこれには加わらない。このことをとっても、クlグァlドは子どもを合めた三角形(父・母・子〉をひとつの単位集団として社会的に明瞭なものにさせていることになる。社会組織の上で主要な単位である妻方居住的拡大家族は、同一家屋あるいは同一集落もしくは集落内一区間に居住して生産活動を始めとする労働や分配、その他生活の諸側面で協向性を有するが、一方、個別家族は、日常的には独自の機能をもつわけではなく、上位の親族集団の分節として機能上の連続休の中のひとつの単位を担うにすぎない。しかも夫婦問の排他的性関係は確立していない。このような社会で、新成員の登場(子どもの誕生)の時に個別家族の愉郭をいっそう際立たせる儀礼がクlグ71ドであると言えよう。すなわち、この儀礼によって男と女の関係を父親と母親の関係として、つまり新しい成員の両親として幾定し、両親の相互補完的な役割行動によって他の単位とは画然と異なる独自のもの(刷出}として個別家族が浮上するのである。おわりにこれまで、人聞の蒋生産過程||新成員の補充ーーには社会がさまざまな形で、またさまざまな程度をもって介入することを我々は学んできた。実際に子どもを受胎・分娩するのは女であり、その全過程で男が関与するのは懐妊のためのごくわずかな時間である。しかし、それぞれの社会の法、横習、世界観、宗教的シンポりズムは懐妊が誰(と誰〉によって、どのように生ずるのか、生命ある人間存在になるのは何(または誰)の関与によるものか、子どもの容貌・形姿・気質などの属性は誰のどのような行為によって決定されるのかなどを定め、女の生殖過程における統制力に限界を設けたり、父母の生児に対する責任を規定したりしている。これらがいわゆる民俗生殖理論を構成しているわけだが、この生殖理論もそれぞれの社会の特徴を反映している。それでは小論が対象としたアマゾン流域熱帯雨林地帯からギアナ高地にかけての社会の特徴は何か。まず、生業は、比重はさまざまだが焼畑耕作、狩猟、漁MV、採集の混合経済を基盤としている。社会的単位として最も重要な機能を持つのは萎方居住的拡大家族で、一集落あるいは集落の一区画に、あるいは共同家屋に集伎している。最小の社会的単位である個別家族は拡大家族の織成部分として、機能的に拡大家族と明確に区別し得るほどのものをもたない。その上、夫婦関係が排他的性関係を基盤にしていないので婚姻関係は脆弱であり、そのため傭別家族の燐成員も安定的・国定的ではない。そのような彼らの社会では、子どもは||人聞はii骨、肉、血というサブスタンスに霊魂を吹き込まれることによって初めて生命ある存在となると考えられているが、霊魂を付与するのは生児の父親の役割である。そのため霊魂的領野における父親の役割は圧倒的で父子の紐帯は非常に強い。では、これに対して母親と子どもの聞にサプスタンシャルな連続性が想定されているかというとそうではなく、子どもの・身体の「索」となる「卵」は父親のものであり、母親は「耕化」の場所を提供しているにすぎないという。すなわち、子どもはサブスタンシャルにも父親と共有関係にあると考えられているのである。これほどまでに父子関係を強調して止まないということは、彼らの社会では子どもにとって父親が不可欠な存在であり明確に認識される必要があると力説されねばならないことを示している。母子関係について殊更強調されないことはそれが特別に言及するまでもなく明白であるのと反対に。それは、父親という社会的地位にある者が子どもにとって重要ではあるが、父子関係が自ずから判然としているとは言えない社会に起こるべくして起こることであり、そのような状況の下では然るべき手続きによって父親l!もちろん社会的父親であるiーを確定しなければならない。クlJVァ1ドはこのような状況で効力を発揮する。男はクーグァiドに服することにより、一繋が産む子どもの帰属をめぐっての権利を主張し、その社会的承認を得ることができる。そもそもが真疑の不確実な父伎であるから、単に子どもの世話や袈脊行動のみでは不充分であり、世界観や{子市悶観のコンテキストの中に位程づけられた儀礼によって父性を主張するのである。ダグラスは、儀礼の重要な社会学的側面のひとつは社会集団関の関{l)係について何らかの公然たる表明をすることであると述べている。ググァ1ドに関して言えば、父親誇示が社会的条件によって父方l誇示となり、父方集団が生児に対する法的権利を主張し、生児の帰属集団を父方のそれに確定するためのストラテジーとしてクlヴ71ドが機能(2)する場合もある。ここで小論が対象とした地域における出自システムを見てみると、全般的には双系出自だが、中には父系出自、母系出自をとる社会もある。そのため、社会構造とクlグァ1ドとの間には何の関(3)連性もないという見解もあるが、父系制とは言っても父系クランが弱体化し父系出自システムがあまり意味を持たなくなった社会(例・:ム{4)ソドゥルグゥ族)、母系制であっても夫の労働力に対する依存度の高い(5)社会(例:・アラワク族〉など、単系制とは言え、より精管な検討によると出自ジステムに何らかの変容を来していたり、変容が予測し得るような状況の社会にクltvylドが見られることを考えると、出自制とク1グァ1ドとの聞にはある程度の関連があるものと考えられる。かつての、「純粋な母系制や父系制の下ではタ|グ71ドは見られな〈6}い」というタイラーやハ!トランドの指摘は依然として重要な示唆を含むものと言えよう。とは言っても、私は、母系制社会では父性の認識は必要とされないなどとは考えておらず〈ナヤ1ル族、トロブりアンド諸島などで社会的父親が明確に定められることはあまりにも有名である)、また、クlMV71ドが母系制から父系制への移行段階であらわれた習俗であるなどとかつての議論をむし返すつもりも全くない。ただ、単一の帰属集団が生得的に規定されてはいない双系出自システムの社会もしくは単系出自ヅステムが変容を呈している社会にク1グァlドは適合的であると言うに止めておきたい。この問題はクlグアlド慣行のある他の地減の社会組織、生業形態、居住規制、婚姻制度、性別分業規範等々の検討とともに今後に残された課題である。"}]}, 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クーヴァードと社会的父子関係
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名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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KJ00000271222 (3.1 MB)
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Item type | 紀要論文(ELS) / Departmental Bulletin Paper(1) | |||||
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公開日 | 1990-03-01 | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | クーヴァードと社会的父子関係 | |||||
タイトル | ||||||
言語 | en | |||||
タイトル | Social Paternity and the Custom of Couvade | |||||
言語 | ||||||
言語 | jpn | |||||
資源タイプ | ||||||
資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_6501 | |||||
資源タイプ | departmental bulletin paper | |||||
ページ属性 | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | P(論文) | |||||
論文名よみ | ||||||
その他のタイトル | クーヴァード ト シャカイテキ フシ カンケイ | |||||
著者名(日) |
馬場, 優子
× 馬場, 優子 |
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著者名よみ | ||||||
識別子 | 360 | |||||
姓名 | ババ, ユウコ | |||||
著者名(英) | ||||||
識別子 | 361 | |||||
姓名 | Baba, Yuko | |||||
言語 | en | |||||
雑誌書誌ID | ||||||
収録物識別子タイプ | NCID | |||||
収録物識別子 | AN00032081 | |||||
書誌情報 |
大妻女子大学文学部紀要 巻 22, p. 33-45, 発行日 1990-03 |