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"『源氏物語』における和歌を、独詠歌・贈答歌・唱和歌の三つに分類することが定説となっている。この三分類は同一の場にいる詠者の数で規定され、唱和歌は三人以上による和歌が置かれている場合を指しており、一八組が認定されている。しかし、「唱和」という語は、二者間の贈答を言うのが本来の用法であり、用語として適当ではない。また、唱和歌とされた和歌は、すべて人々が集まる「会合」で詠まれたものと認定できるので、「会合の歌」と規定するのが妥当である。以上のことについては、二〇一一年五月二八日に行なわれた中古文学会春季大会(於日本女子大学)でのシンポジウム「源氏物語と和歌」の基調報告「「唱和歌」規定の再検討」で述べ、その概略は「源氏物語「唱和歌」規定の再検討「会合の歌」の提言」(『中古文学』89、二〇一一年一二月)にまとめた。しかし、『源氏物語』の個別的な「会合の歌」については、枚数の制約があり、十分に言及はできなかった。そこで、本稿では、「会合の歌」のうち、公的な場でなされたと考えられる最初の五組を再説したい。本稿の前提となる事柄については、右の前稿を参照されたい。『源氏物語』の本文は、新編日本古典文学全集本を使用するが、表記は一部私に換えた。なお、以下で使用する○で囲った数字は、一八組とされる「唱和歌」に付した通し番号である。「会合の歌」の再検討以下は、「会合」となった場と「会合の歌」である所以を確認しながら、物語展開とのかかわりなどを整理していくことになる。最初の「会合の歌」は、瘧病の治療に北山を訪れた光源氏が帰京する段にある。①御迎への人々参りて、おこたりたまへるよろこび聞こえ、内裏よりも御とぶらひあり。僧都、世に見えぬさまの御くだもの、何くれと、谷の底まで掘り出で、いとなみきこえたまふ。「今年ばかりの誓ひ深うはべりて、御送りにもえ参りはべるまじきこと。なかなかにも思ひたまへらるべきかな」など聞こえたまひて、大御酒まゐりたまふ。「山水に心とまりはべりぬれど、内裏よりおぼつかながらせたまへるもかしこければなむ。いまこの花のをり過ぐさず参り来む。宮人に行きて語らむ山桜風より先に来ても見るべく」 源氏物語「会合の歌」の意義( 13 ) ― 13 ―とのたまふ御もてなし、声づかひさへ目もあやなるに、優曇華の花待ち得たる心地して深山桜に目こそ移らねと聞こえたまへば、ほほ笑みて、「時ありて一たび開くなるは、かたかなるものを」とのたまふ。聖、御土器賜はりて、奥山の松のとぼそをまれにあけてまだ見ぬ花の顔を見るかなとうち泣きて見たてまつる。聖、御まもりに、独鈷奉る。見たまひて、僧都、聖徳太子の百済より得たまへりける金剛子の数珠の玉の装束したる、やがてその国より入れたる箱の唐めいたるを、透きたる袋に入れて、五葉の枝につけて、紺瑠璃の壼どもに、御薬ども入れて、藤桜などにつけて、所につけたる御贈物ども捧げたてまつりたまふ。君、聖よりはじめ、読経しつる法師の布施ども、まうけの物ども、さまざまに取りに遣はしたりければ、そのわたりの山がつまで、さるべき物ども賜ひ、御誦経などして出でたまふ。(若紫巻・二二〇〜一頁)光源氏は暁方には瘧病から回復していた。その朝には、迎えの人々が到着し、その誰かが持参したのであろう帝からのお見舞がある。徴候で北山に来た光源氏であったが、すでに桐壷帝の知るところとなっている。惟光以外の供人たちを京に帰していたので、その者たちが帝に報告していたのであろう。北山僧都は、帝から直々のお見舞もある光源氏を丁重にもてなそうと送別の宴を準備している。珍しい果物などがあれこれと整えられ、「大神酒」も用意されている。一介の賜姓源氏に対するもてなしを越えて、王者の風格を持つ当代第二御子として待遇するのである。一方の光源氏は、引用後半部にあるように、僧たちへのお布施や贈物(まうけの物)、誦経料などを京から取り寄せていた。北山での接待があることを見込んでいたのであろう。私的な送別の宴ではなく、すでに公的な趣となっている。光源氏をもてなす、こうした送別の宴が「会合」の場であった。ここには、光源氏・北山僧都・聖以外に、光源氏の供人や接待にあたる僧侶などもいることになる。宴は「会合」なので、そこで詠まれた歌は「会合の歌」となる。歌の契機は、僧都が「大神酒」を差し上げようとしたからであり、盃をさされて詠歌に及ぶのは、当時の宴席の風景であった。光源氏は辞去の挨拶を述べてから、詠歌に及んでいる。京に帰ったら、宮人に語りましょう、山桜の美しさと、風が散らす前に見に来るようにと、と詠んでいる。北山の「山桜」を讃美する土地誉めをし、再来を約す内容を詠み込んで、お礼とするのである。光源氏の歌に続いて北山僧都が詠歌しているのは、盃が返されたからになる。僧都は、「山桜」に対して「優曇華の花」で応じている。あたかも優曇華の花を待ちに待って見ることができたような光源氏にお目にかかり、「深山桜」などには目も移りませんとしている。「優曇華の花」は、千年に一度開花し、その折には金輪王または如来が出現するとされている。金輪王は転輪聖王の一で、『三宝絵』下「石塔」に「造塔延命功徳経に云」として「(塔の高さが)四_ちやく手しゆナルハ、金輪王トナリテ、四天下ニ王トアラム」(新大系一六三頁)とあるように、四天下を統治する理想的な王者である。光源氏を「優曇華の花」に例えたということは、金輪王に例えたということにもなる。光源氏に王者の風格を見出したからに他ならない。北山の「山桜」を「深山桜」と謙退し、光源氏の来訪を称えたのである。主側としての答礼のあり方になるが、光源氏を金輪王に例えたことは、字義通りの思いとなろう。光源氏は、『法華経』方便品の「優曇鉢華ノ時ニ一タビ現ズルガ如キノミト」などにより、一度だけ咲くのはめったにないことなので、優曇華のよそえは相応しくないと謙_し、さらに自ら聖に土器を差し出している。盃が回ってきたので、聖も詠歌することになる。この聖は、「老いかがまりて室の外にもまかでず」「峰高く、深き岩の中にぞ、聖入りゐたりける」とされ、山深くの庵室から出ることもなく修行専一であったとされていた。しかし、わざわざ送別の宴に「会合」したことなる。それは、北山僧都と同じように、光源氏に― 14― (14 )「優曇華の花」の如くの麗質を見出したからに他ならない。出ることもなかった奥山の松の戸を開けて、まだ見たこともない優曇華の花のような光源氏の尊顔を拝したことですと歌にしている。僧都と聖は共に「優曇華の花」によそえて光源氏を讃美した。光源氏が土地誉めの歌を詠んだので、二人は賓客讃美で答礼したことになる。これは形式的な社交辞令ではなく、「優曇華の花」へのよそえは、当代第二御子が持つ王者の風格を認めたからに他ならない。「会合の歌」として、僧都と聖はおのずと協和して、賓客となる光源氏の麗質を見出して讃美したのである。こうした表向きの意味がある一方で、『源氏物語』の「会合の歌」は、歌に詠歌する人物の心情が託されることで物語展開を図っていく働きが認められる。ここでは、光源氏が「山桜」に垣間見た紫の君を密かによそえることで(1)、求婚譚的な展開を持続させることになる。「山桜風より先に来ても見るべく」は、山桜が風に散らされる前に見に来るようにということに、紫の君がどこかに行ってしまう前に会いに来たい意が潜められている。「若紫」巻は、「紫の上求婚譚(2)」としてのまとまりを持っており、この「会合の歌」の前後には、「山桜」に紫の君をよそえる歌が囲繞している。したがって、「会合の歌」として詠まれた光源氏の歌にも、紫の君に対する恋着が潜められているとしてもおかしくない。辞去にあたって、光源氏に改めて紫の君に対する恋着を確認させ、今後の展開を図っていることになる。盃も回って宴が一段落してから、僧都と聖は光源氏に贈物をしている。しかし、北山に光源氏が来訪したのは、瘧病治療のためであったので、本来的には贈物は不要ではなかろうか。それなのに贈物をしたのは、王者光源氏の来臨を感謝したからになろう。聖が「御まもり」として独鈷を贈ったように、贈物は病を得た王者を守護するためであった。僧都が贈った「聖徳太子の百済より得たまへりける金剛子の数珠」も同じ事情である。『枕草子』「すさまじきもの」段に、「験者の、物の怪調ずとて、いみじうしたり顔に、独鈷や数珠などを持たせ」(新全集二三段・六〇頁)とあるように、この二つの仏具は、仏法によって守護するための呪具であった。僧都は数珠とは別に、病を癒す薬の入った「紺瑠璃の壼」も「捧げたてまつりたまふ」とされていた。これらが王者に献呈されたのである。こうした贈与に対して、光源氏も返礼したことは先にみたごとくである。「 会合」 の場なので、贈与交換がされたことになるが、この贈物には、物語として別の意味が込められたようである。かつて、僧都の贈与した「 金剛子の数珠」 に「 三種の神器に相当するような機能」 を見出だし、「 来たるべき王権の予祝」 が読み取られていた(3)。ここは、独鈷と数珠とによって、来たるべき流離の苦難から、優曇華の花や金輪王によそえられる王者光源氏を守護させる機能を持たせたことになろう。物語は、光源氏流離の苦難をすでに予測していた。北山で国見をした折に、光源氏は供人良清から明石の浦のことを聞かされていた。これは須磨・明石への流離の伏線としか考えようがない。そして、流離の苦難に耐えるべく、光源氏を守護する呪具がここで贈与されたと見られよう。北山僧都は光源氏流離の折、紫の上の少納言の乳母から「御祈祷のこと」(須磨巻・一九〇頁)を依頼されている。僧都は、須磨流離とも関わるのであり、守護する呪具としての数珠は、「須磨」巻の「会合の歌」の場で暗示されることになる(後述)。送別の宴は、贈与交換を終えてお開きとなり、光源氏が車に乗り込もうとした時に、左大臣の子息、頭中将や左中弁も迎えに参上している。そこで、「岩隠れの苔の上に並みゐて、土器まゐる」ということになり、さらに別の「会合」の宴がされ、興に乗って管絃の遊びも行なわれている。「会合」を二つに分けて語ることになったのは、「紫の上求婚譚」に位置づけられる前者とは別にして、葵の上との物語に連接させるためであろう。帰京後に光源氏は父桐壷帝に挨拶してから、左大臣邸に赴くことになっている。こうした次第のために、「会合」は二つに分けられたのだと思われる。以上、「若紫」巻の送別の宴での「会合の歌」は、「優曇華の花」や源氏物語「会合の歌」の意義( 15 ) ― 15 ―金輪王によそえられる光源氏の王者性を確認し、来るべき流離の苦難から守護すべき贈物がされたことを語るとともに、紫の君求婚譚を継続させる働きを保持していたと言えよう。***次の「会合の歌」は、「賢木」巻、桐壺院崩御に伴う藤壷中宮の三条宮遷御に際して詠まれている。「若紫」巻で予見された流離の苦難は、桐壺院崩御による右大臣・弘_殿一派の専横の時代になったことと関係していた。桐壺院崩御は、須磨流離へと続く苦難の時代を象徴することなる。それを暗示するのが、この巻の「会合の歌」となる。②宮は、三条宮に渡りたまふ。御迎へに兵部_宮参りたまへり。雪うち散り風はげしうて、院の内やうやう人目離れゆきてしめやかなるに、大将殿こなたに参りたまひて、古き御物語聞こえたまふ。御前の五葉の雪にしをれて、下葉枯れたるを見たまひて、親王、影広み頼みし松や枯れにけん下葉散りゆく年の暮かな何ばかりのことにもあらぬに、折からものあはれにて、大将の御袖いたう濡れぬ。池の隙なう凍れるに、冴えわたる池の鏡のさやけきに見なれし影を見ぬぞ悲しきと思すままに、あまり若々しうぞあるや。王命婦、年暮れて岩井の水も凍り閉ぢ見し人影のあせもゆくかなそのついでにいと多かれど、さのみ書き続くべきことかは。渡らせたまふ儀式変らねど、思ひなしにあはれにて、旧き宮は、かへりて旅心地したまふにも、御里住み絶えたる年月のほど、思しめぐらさるべし。(賢木巻・九九〜一〇〇頁)天皇や上皇の后妃たちは、崩御後の四十九日の法事が済むまでは御所に留まり、その後は私邸に遷御するのが決まりであった。藤壷中宮も、こうした掟によって、十二月二十日のほどに三条宮に遷御することになる。遷御に際しては、身内や臣従する者たちが迎えに御所に参上するが、右大臣・弘_殿女御専横の時代なので、藤壷に同調する人々だけが供奉するために参上している。藤壷の場合は兄弟の兵部_宮(紫の上の父)であり、光源氏であった。その人々が「会合」するのであり、これは、遷御という公的な儀礼の場となる。そして、遷御の儀礼に供奉するために「会合」した人たちによって「会合の歌」が詠まれている。これは、出発を待つまでの間に、控えの間にいた人たちが詠歌したということになる。歌は三首しか置かれていないが、草子地に「そのついでにいと多かれど、さのみ書き続くべきことかは」とあるように、他の人々にも詠歌があったことになる。まさに「会合の歌」なのである。歌は、遷御そのことよりも、その所以となった桐壺院崩御の悲しみとその影響が詠まれている。三首とも桐壺院やその恩顧を暗示する「 影」 を共通させている。兵部_宮は「影広み」に桐壺院の恩顧・恩光の無辺さを言いつつ、枯れた五葉の松に崩御、「下葉散りゆく」に御所を去る后妃や中宮近臣のありようをよそえている。光源氏は、一面に凍りついた南池を鏡に見立て、そこに「見馴れし影」である父の面影が映らない崩御の絶望を詠んでいる。王命婦は、岩井の水(遣水)が結氷して流れなくなったことに、后妃や近臣たちなどの「見し人影」が御所にまばらになっていくことをよそえている。王命婦の歌は、藤壷の代弁でもあろう。藤壷の歌が置かれないことで、逆に悲しみの深さが暗示されていよう。いずれも庭前の光景に触発されるかのようにして詠まれており、兵部_宮は植栽されていた枯れた五葉の松と下葉、光源氏は南池、王命婦は岩井の水をそれぞれ詠み込んでいた。庭が悲しみを映し出すのである。このように、この巻の「会合の歌」は、桐壺院崩御を悼み、遷御する事態に応じた内容になっていて、右大臣・弘_殿女御と対立する、反主流派の藤壷や光源氏などの不遇も暗示している。そして、この不遇は、須磨流離のそれへと展開していくことになる。―16― (16 )***次の「会合の歌」は、「須磨」巻のものになるが、ここは先の北山の段と照応しているようである。須磨で迎えた十五夜の段である。③前栽の花いろいろ咲き乱れ、おもしろき夕暮に、海見やらるる廊に出でたまひて、たたずみたまふさまの、ゆゆしうきよらなること、所がらはましてこの世のものと見えたまはず。白き綾のなよよかなる、紫苑色などたてまつりて、こまやかなる御直衣、帯しどけなくうち乱れたまへる御さまにて、「釈_牟尼仏弟子」と名のりて、ゆるるかに誦みたまへる、また世に知らず聞こゆ。沖より舟どものうたひののしりて漕ぎ行くなども聞こゆ。ほのかに、ただ小さき鳥の浮べると見やらるるも、心細げなるに、雁の連ねて鳴く声楫の音にまがへるを、うちながめたまひて、涙のこぼるるをかき払ひたまへる御手つき黒き御数珠に映えたまへる、古里の女恋しき人々、心みな慰みにけり。初雁は恋しき人のつらなれや旅の空飛ぶ声の悲しきとのたまへば、良清、かきつらね昔のことぞ思ほゆる雁はその世の友ならねども民部大輔、心から常世を捨てて鳴く雁を雲のよそにも思ひけるかな前右近将監、「常世出でて旅の空なる雁がねもつらに遅れぬほどぞ慰む友まどはしては、いかにはべらまし」と言ふ。親の常陸になりて下りしにも誘はれで、参れるなりけり。下には思ひくだくべかめれど、誇りかにもてなして、つれなきさまにしありく。月のいとはなやかにさし出でたるに、今宵は十五夜なりけり、と思し出でて、殿上の御遊び恋しく、所どころながめたまふらむかしと、思ひやりたまふにつけても、月の顔のみまもられたまふ。「二千里外故人心」と誦じたまへる、例の涙もとどめられず。入道の宮の、「霧やへだつる」とのたまはせしほどいはむ方なく恋しく、をりをりの事思ひ出でたまふに、よよと泣かれたまふ。「夜更けはべりぬ」と聞こゆれど、なほ入りたまはず。見るほどぞしばしなぐさむめぐりあはん月の都は遥かなれども(須磨巻・二〇〇〜三頁)十五夜の日に、光源氏と須磨に同行してきた供人たちが「会合」しているのが、この場となる。供人たちは各人の持ち場から離れ、今は光源氏を囲むようにして控えているのであろう。この場で、供人たちから光源氏は、「ゆゆしうきよらなること、所がらはましてこの世のものと見えたまはず」と見られている。不吉なほど美しく、須磨の地においてはなおさらこの世の人とも思われないというのである。これは「若紫」巻で「優曇華の花」によそえられたことと見合っていよう。また、「釈_牟尼仏弟子」と名のって経をゆっくりと読む光源氏の声は、この世の声とも思われないと供人たちに聞かれている。それはさしずめ_陵頻の声となろうか。光源氏は仏法の加護や守護を念じているのであり、涙を払う白き手は「黒き御数珠」に映えているという。この数珠は、「黒檀の数珠」(集成・新全集)とも「紫檀の数珠か」(新大系)ともされているが、これは北山僧都から贈与された「金剛子の数珠」ではなかろうか。金剛子の数珠も、黒色であった。このように解すれば、「若紫」巻での贈与の意味をここにきて明らかにしていることになる。「黒き御数珠」 を手にして経を読む光源氏は、やはり仏法の守護にすがっていることになる。こうした折しも、「 雁の連ねて鳴く声」 が聞こえてきて、光源氏は詠歌に及び、供人たちはそれに応じて「 会合の歌」 となっている。ここは、この世の者とも思われない王者光源氏の歌に、供人たちが応えた「 応制の歌(制は天子の命令の意)」 と見ることも可能であろう。あるいは、「 応和の歌」 と新たに規定することもできよう。「 唱和」 は二者間の贈答の意なので、この場にはふさわしくない。中心となる人源氏物語「会合の歌」の意義( 17 ) ― 17 ―物の歌に続いて、他の人々が同調して詠歌する場合は、「応和の歌」とするのがいいのかもしれない。「会合の歌」の後で、光源氏は、月の出から今宵が十五夜であったことに気付いている。供人たちは、光源氏を慰藉するために、ひそかに月の宴を用意していたのだろうか。光源氏が「殿上の御遊び」を想起したように、帝が主催する殿上の月の宴になぞらえたのかもしれない。しかし、まだ月の出のない夕暮れであったため、それとは気付かない光源氏は、雁を歌に詠んでいた。そこで供人たちは、その歌にひとまず応答・応和することにしたのであろう。したがって、ここは「応制の歌」あるいは「応和の歌」のありようと言えよう。黒い数珠を持つ王者光源氏の歌に、供人たちが応和しているのである。歌は、「応制の歌」の様相も持つ「会合の歌」となっているので、供人たちは光源氏の詠歌を受けて「雁」を共通して詠み込むことになっている。「雁」はまた、題詠の題のようでもある。物語では、都合四首並立する場合は、二首同士が対応するようであり(4)、ここもそのようになっている。光源氏と良清は、「恋しき人」「昔のこと」というように、望郷・懐旧の思いを雁に託している。民部大輔惟光と前右近将監は、「常世を捨てて」「常世出でて」というように、「旅の空」にある雁と同様の流離の旅の途上にあることを詠んでいる。また、新全集頭注が指摘するように、「四首は、各直前の歌の歌詞を受けて連続するが、最後は最初の源氏の歌の「つら」「旅の空」にも対応する緊密な構成」になっている。しかし、こうした二首ずつの対応や構成は、物語の工夫という問題であり、「 応制の歌」 あるいは「 応和の歌」 のようになっている「 会合の歌」 のありようが一次的なことになる。供人たちは、主の光源氏に同調し、連帯共同することは、須磨の地において暗黙の了解事項である。だから、「 会合の歌」 となった詠歌もそれが反映していることになる。従来の「 唱和歌」 規定では、ことさらに連帯共同が読み取られてきたが、「 会合の歌」 とすれば前提の問題となる。夕暮れの「 会合の歌」 が示されてから、やっと十五夜月の月の出となるが、月見の宴は果たして行なわれたのであろうか。「 殿上の御遊び恋しく、所どころながめたまふらむかしと、思ひやりたまふにつけても、月の顔のみまもられたまふ」 とされるだけであり、「 殿上の御遊び」 が想起され、月は見られていても、宴のことは示唆されていない。供人が「 夜更けはべりぬ」 と注進しているのは、望郷・流離の悲しみの深さのために宴は催されず、その心情・心境が持続されて夜が更けてしまったからであると思われる。流離の苦難のうちにある間は、月見の宴は遠慮されたのであろう。光源氏が月見の宴を催すのは、流離から復権してからになる(後述)。夜が更けても悲しみに沈む光源氏は、さらに詠歌に及んでいる。歌は二首示されているが、右の引用部では一首目だけにした。この二首は独詠歌とされているが、果たして供人たちに聞かれているのであろうか。「 夜更けはべりぬ」 と注進されて歌が置かれているので、聞かれている蓋然性は高い。もし、聞かれているとしたら、その悲しみの深さに供人たちは黙さざるを得なかったのかもしれない。そして、「 見るほどぞしばしなぐさむめぐりあはん月の都は遥かなれども」 の歌は、「 松風」 巻の「 会合の歌」 に照応していくことになるが、その前に「 絵合」 巻の「 会合の歌」 を見なければならない。***「 絵合」 巻の「 会合の歌」 は、藤壷中宮の御前で行なわれた初度の物語絵合における歌合の歌がそれになる。歌合の歌まで「 唱和歌」 と規定する不合理さは、すでに触れている。ここは、歌合を伴う物語絵合という「 会合」 の場であることをまず確認しておきたい。④次に伊勢物語に、正三位を合はせて、また定めやらず。これも右はおもしろくにぎははしく、内裏わたりよりうちはじめ、近き世のありさまを描きたるは、をかしう見どころまさる。平内侍、「 伊勢の海の深き心をたどらずて古りにし跡と波や消つべき― 18― (18 )世の常のあだごとのひきつくろひ飾れるにおされて、業平か名をや朽すべき」と、争ひかねたり。右の典侍、雲の上に思ひのぼれる心には千尋の底もはるかにぞ見る「兵衛の大君の心高さは、げに棄てがたけれど、在五中将の名をば、え朽さじ」とのたまはせて、宮、みるめこそうらふりぬらめ年へにし伊勢をの海人の名をや沈めむかやうの女言にて、乱りがはしく争ふに、一巻に言の葉を尽くして、えも言ひやらず。(絵合巻・三八一〜三頁)絵合は、光源氏の須磨の絵日記によって勝負の決着がついたように、須磨流離の苦難を対象化し、復権して冷泉王朝を出発させる藤壷と光源氏の連帯するありようを語っている。それを象徴するのが、この引用部になる。左方となる梅壷女御・光源氏は、二番目の勝負で『伊勢物語』の絵を提出し、平内侍が詠歌している。右方の弘_殿女御・権中納言は『正三位』(散逸物語)で、詠歌は典侍となる。勝負は「また定めやらず」と引き分けになっているが、実際は、左方が「争ひかねたり」とされているように、論点が明確でなく、劣勢であった。これを救ったのが判詞となる藤壷の「在五中将の名をば、え朽さじ」であり、判歌であった。藤壷には『伊勢物語』への思い入れがあるのであり、その理由が判歌に潜められている。「みるめ」は「海松布」と「見る目」、「うらふり」は「心うらふり」と「浦古り」の掛詞であり、「海松布」「浦」「沈め」は「伊勢をの海人」の縁語となっている。見た目にはうらぶれて古びていようとも、年月を経た伊勢の海人の名声を沈めてよいものでしょうか、と言うのである。『伊勢物語』への肩入れは、新全集が説くように「海人の住むわびしい海辺に、流離の業平像を形象。さらにその業平像のうえに流離のころの源氏像を重ねる」とする通りである。藤壷の『伊勢物語』への思い入れは、光源氏の流離と重ねられることによっているのであり、こうした発言が再度の絵合で須磨の絵日記を呼び出すこととなっている。絵合となった「会合の歌」は、光源氏の流離を対象化しているのであり、そのことにおいて「須磨」巻の「会合の歌」と連関していることになる。また、「須磨」「絵合」両巻は、次の「松風」巻とも連関することになる。***「松風」巻には二組の「会合の歌」があるが、「須磨」巻と照応していくのは、桂の院での大御遊びの宴を語る段である。明石一族の大堰邸に泊まった光源氏は、そのまま帰京するつもりであったが、人々が多く参集して来たので予定を変更し、一行は桂の院に赴き、_応することになる。⑤今日は、なほ桂殿にとて、そなたざまにおはしましぬ。にはかなる御_応と騒ぎて、鵜飼ども召したるに、海人のさへづり思し出でらる。野にとまりぬる君達、小鳥しるしばかりひきつけさせたる荻の枝など苞にして参れり。大御酒あまたたび順流れて、川のわたりあやふげなれば、酔ひに紛れておはしまし暮らしつ。おのおの絶句など作りわたして、月はなやかにさし出づるほどに、大御遊びはじまりて、いと今めかし。弾き物、琵琶和琴ばかり、笛ども、上手のかぎりして、をりにあひたる調子吹きたつるほど、川風吹きあはせておもしろきに、月高くさし上がり、よろづのこと澄める夜の、やや更くるほどに、殿上人四五人ばかり連れて参れり。上にさぶらひけるを、御遊びありけるついでに、「今日は六日の御物忌あく日にて、必ず参りたまふべきを、いかなれば」と仰せられければ、ここにかうとまらせたまひにけるよし聞こしめして、御消息あるなりけり。御使は蔵人弁なりけり。「月のすむ川の遠をちなる里なれば桂の影はのどけかるらむうらやましう」とあり。かしこまりきこえさせたまふ。上の御遊源氏物語「会合の歌」の意義( 19 ) ― 19 ―びよりも、なほ所がらのすごさ添へたる物の音をめでて、また酔ひ加はりぬ。ここには設けの物もさぶらはざりければ、大堰に、「わざとならぬ設けの物や」と、言ひ遣はしたり。とりあへたるに従ひて参らせたり。衣櫃二荷にてあるを、御使の弁はとく帰り参れば、女の装束かづけたまふ。久方の光に近き名のみして朝夕霧も晴れぬ山里行幸待ちきこえたまふ心ばへなるべし。「中に生ひたる」とうち誦じたまふついでに、かの淡路島を思し出でて、躬恒が、「 所からか」 とおぼめきけむことなどのたまひ出でたるに、ものあはれなる酔泣きどもあるべし。めぐり来て手にとるばかりさやけきや淡路の島のあはと見し月頭中将、うき雲にしばしまがひし月影のすみはつるよぞのどけかるべき左大弁、すこし大人びて、故院の御時にも睦ましう仕うまつり馴れし人なりけり、雲の上のすみかを捨てて夜半の月いづれの谷に影隠しけむ心々にあまたあめれど、うるさくてなむ。け近ううち静まりたる御物語すこしうち乱れて、千年も見聞かまほしき御ありさまなれば、斧の柄も朽ちぬべけれど、今日さへは、とて急ぎ帰りたまふ。物ども品々にかづけて、霧の絶え間に立ちまじりたるも、前栽の花に見えまがひたる色あひなど、ことにめでたし。近衛府の名高き舎人、物の節どもなどさぶらふに、さうざうしければ、「 その駒」 など乱れ遊びて、脱ぎかけたまふ色々、秋の錦を風の吹きおほふかと見ゆ。ののしりて帰らせたまふ響き、大堰には物隔てて聞きて、なごりさびしうながめたまふ。御消息をだにせで、と大臣も御心にかかれり。桂の院において、光源氏を慕ってきた人々が「 会合」 して_応の宴となったことを語る段である。「会合の歌」は引用後半部の三首になるが、前半部に置かれた冷泉帝と光源氏との贈答歌の延長上にあるようなので、その次第から確認していきたい。桂の院では、にわかな宴となったため、鵜飼を召してその用意をさせている。また、たまたま小鷹狩をしていた「野にとまりぬる君達」は、獲物の小鳥などを苞にして参上して来たので、これらを酒菜にして宴が始まっている。桂の院には、鵜飼と鷹飼がいたことにもなる。清遊先での宴となったので、盃は順々に何度も巡っているという。人々がたまたま「会合」しての宴は、興に乗り、作文や大御遊びも行なわれている。当時の貴族社会に見られる宴のあり方である。秋の月が高くさし上がる頃、さらに宮中から殿上人が四五人ほど連れだってやって来た。冷泉帝の消息を持参したのである。清涼殿で「御遊び」があった折、冷泉帝が光源氏の不参を気にして殿上人に尋ねたところ、桂に逍遥していることを知り、わざわざ異例の消息を届けさせたのであった。そして、その消息中の歌に光源氏が返歌する次第となっていく。なお、ここの月が十五夜かどうかは分からない。しかし、殿上であったとされる「 御遊び」 は、十五夜であってもなくても、月見の宴で行なわれたものとなろう。月の美しい夜、内裏では「 殿上の遊び」 があり、桂では「 大御遊び」 がされることになる。冷泉帝の贈歌は、桂での逍遥を羨む内容となっているので、この「 会合」 の場で披露されたことになろう。後に触れるように、「 会合の歌」 となる頭中将歌は、冷泉帝の歌句を踏まえていることからも窺えよう。冷泉帝の贈歌は、「 月のすむ川(桂川)」 の「 遠(向こう)」 の桂の里にいるのならば、「 桂の影(月光)」 は、のどかに澄んでいることでしょうとしている。「 月」 によって「 桂川」 を言い、「 桂」 によって「 月」 を言うという当意即妙の歌になっているが、こうした措辞でもって清涼殿に光源氏が不参なのを残念に思いつつ、羨んでいることになる。― 20― (20 )冷泉帝の真意を理解した光源氏は、月の光に近いという桂の里は名ばかりで、朝夕霧の晴れ間もない山里ですと詠んでいる。実際は、月が澄み昇っているわけだが、冷泉帝の心情をはばかったのである。だから、冷泉帝が桂の「里」を、「澄む」「遠」としたのに対して、「晴れぬ」「近き」として返したことになる。真意は、冷泉帝のご威光・ご光臨がないかぎり、月は澄みようもありませんというのであり、その意を草子地が「行幸待ちきこえたまふ心ばへなるべし」と掬い取っている。冷泉帝の歌の構文は、次の伊勢の歌に拠っており、さらに光源氏の返歌も引歌にしていた。三歌を併記する。・月のすむ川のをちなる里なれば桂の影はのどけかるらむ(冷泉帝歌)桂に侍りける時に、七条の中宮(温子)の訪とはせたまへりける御返事に奉れりける・久方の中に生ひたる里なれば光をのみぞ頼むべらなる(古今・雑下・九六八・伊勢)・久方の光に近き名のみして朝夕霧も晴れぬ山里(光源氏歌)前二者は、第三句がいずれも「里なれば」で共通している。上の句が似た内容の条件句となっており、下の句はそれを受けて「のどけし」や「頼む」が導かれている。ここは、伊勢歌の「頼む」を冷泉帝歌では「のどけし」に変換したことになる。一方、光源氏の歌の「久かたの光」もこの伊勢歌に拠っていた。作者が伊勢を引歌にしたのか、冷泉帝がそうしたのか微妙なところであるが、伊勢歌が軸になっていることは確かであり、光源氏は明確に引歌であると認識している。だから、伊勢歌の一句「中に生ひたる」を口ずさんでいる。伊勢歌を背景に置くことで、月の名所としての桂を際立たせている。また、その桂を冷泉帝は羨ましがっていた。ということは、月において光源氏のいる桂の院が優っていたということになる。そして、「御遊び」においても桂の院が優位であった。冷泉帝の歌に続く地の文は、「上の御遊びよりも、なほ所がらのすごさ添へたる物の音をめでて、また酔ひ加はりぬ」となっていた。ここの「すごさ」は、「冷え冷えと心にしみる感じ」(新全集)、「さびしさ」(新大系)などとするよりも、「ひとしお心にしみ入る」(集成)と解したほうがいいであろう。殿上の遊びよりも、桂の院のそれのほうが、すばらしいのである。このように、「月」と「御遊び」において、清涼殿と桂の院が対比され、後者の優位が暗示されているのである。そして、この「月」は、さらに須磨・明石を想起させている。伊勢歌を口ずさんだ光源氏は、「淡路島」と「躬恒が所からか」と詠んだ歌を想起している。かつて光源氏は明石の地で、淡路島を見ながら躬恒歌「淡路にてあはと遥かに見し月の近き今宵は所からかも」の一句を口ずさんで、次のように詠んでいた。ただ目の前に見やらるるは、淡路島なりけり。「あはと遥かに」などのたまひて、あはと見る淡路の島のあはれさへ残るくまなく澄める夜の月(明石巻・二三九頁)光源氏が「淡路島」と「躬恒」の歌を想起したのは、この「明石」巻のことになる。明石では躬恒歌の「あはと遥かに」を口ずさんだが、桂では同一歌の他の一句「所からか」になっており、これはわざと変えたのであろう。桂の月を詠み込んだ冷泉帝と光源氏の歌は、そうなるのが必然であるかのように、須磨・明石で見た月を想起させている。これは、一方で冷泉帝の「殿上の御遊び」があったからであり、このことは先に見た「須磨」巻の十五夜で懐古されていた。月は主題性を持って須磨・明石の流離と連関している。そして、さらにその連関は、「会合の歌」でも継続されていく。流離の時代を想起した光源氏は、さらに詠歌に及んでいく。そして、それに扈従した人々が応答・応和して、ここも「応制の歌」になるかのように「会合の歌」となっている。すでに、この「会合の歌」の源氏物語「会合の歌」の意義( 21 ) ― 21 ―「後二者の歌は応製詩に近い表情をもたせられている( 5)」との指摘がなされている。また、「賢木」巻と同じように「心々にあまたあめれど、うるさくてなむ」との草子地があり、他にも扈従した人の歌が多く詠まれた「会合の歌」であることも提示している。光源氏の歌は、月日が「めぐり来て」、今は手に取るばかりはっきり見える月と、かつて明石の浦で淡路島の「あは」と霞んで見えた月とは同じであろうかと詠んでいる。「さやけき」と見えるのは、京に復権し、栄華の階梯を昇っているからである。流離の時代と今を対比させるのであり、「めぐり来て」との措辞は、「須磨」巻の「会合の歌」に続いて詠まれた「見るほどぞしばし慰むめぐりあはん月の都は遥かなれども」と使用されていた。「須磨」巻と「松風」巻の二組の「会合の歌」に、呼応関係が認められるのである。光源氏の歌に応じて、この巻だけの登場となる頭中将の歌「うき雲にしばしまがひし月影のすみはつるよぞのどけかるべき」も、その対比を詠んでいる。「うき」は掛詞となり、「憂き雲にしばしまがひし月影」に苦難の流離の時代を過ごした光源氏によそえ、復権して京に「住む」今は、澄みきっており、世の中も泰平でありますとしている。「憂き雲にしばしまがひし月影」には、右大臣・弘_殿一派専横の時代を暗示させる働きもあろう。それは光源氏流離をもたらした元凶であった。また一方で、冷泉帝歌の結句「のどけかるらむ」も受けており、あたかも、冷泉帝歌に応制しているかのようである。冷泉帝歌は、光源氏の返歌と対応するだけでなく、「会合の歌」にもかかわっている。特異な歌の配置と言えよう。頭中将に続いて、同じくこの巻だけに登場する左大弁は「雲の上のすみかを捨てて夜半の月いづれの谷に影隠しけむ」と詠んでいた。ここの「夜半の月」は桐壺院を指し、「影隠し」にその崩御をよそえつつ、頭中将の「憂き雲にしばしまがひし月影」 と同じように、右大臣・弘_殿一派専横の時代をひそめていよう。今の時代を直接詠み込んではいないが、桐壺院崩御を言うことで、前二者と同じような対比を暗に示している。また、冷泉帝と光源氏の共通の祖として桐壺院を回顧することになる。桂の院での贈答歌と「会合の歌」は、その地名と時節に触発されるかのように「月」「月影」への志向が顕著である。この「月」とは何であったか。これはすでに指摘されているように「皇統」や「皇統の威光」を暗示している(6)。この皇統は桐壺院を祖とする一統である。光源氏がその皇統に連なるものとして定位されている。以上のような点を踏まえて、改めて桂の院の宴を確認しておきたい。あたかも天皇の行幸であるかのように、鵜飼と鷹飼が奉仕している。また、宴は「大御遊び」とされていた。この語は、「少女」巻の六条院行幸に際して用例が認められるだけである。「大御」は「神または天皇の事物に冠する尊敬の接頭語ミの上に美称の接頭語オホを加えた、最大級の尊敬の意を表す」(『岩波古語辞典』)と説かれ、「天皇に関する最高の敬意を表すもの」と敷衍する見解(7)も出されている。これらを受ければ、「大御遊び」は天皇のそれということになる。さらに、「会合の歌」では、頭中将と左大弁が詠歌していた。折しも清涼殿で「御遊び」が行なわれていたのである。本来ならば、この二人は清涼殿にいるべきではなかろうか。天皇直属の近臣が頭中将または頭弁となろう。また、左大弁は弁官の第一となり、政務の中心となる有識者である。それなのに今は桂の院で光源氏に奉仕している。頭中将は皇統の威光の意ともなる「月影」に光源氏をよそえてもいた。この一方、清涼殿の「御遊び」よりも、桂の院でのそれのほうが、優っているともされていた。冷泉帝はまだ光源氏が実父とは知らないが、あたかも父院であるかのように待遇していることにもなる。たとえて言うならば、「松風」巻は二所朝廷が現出しているかのようである。これは、冷泉王朝を全面的に支えて維持する光源氏の上皇としてのありよう、あるいは、王者性ということにもなろう。須磨流離の苦難を乗り越えて、光源氏は冷泉帝に優る巨大な王者となっていることを語っているのである。それを語るのが、桂の院の宴であり、そこで― 22― (22 )の「会合の歌」なのであった。おわりに以上、一八組ある『源氏物語』の「唱和歌」を「会合の歌」として把握し、最初の五組を検討してみた。これらは「若紫」巻の北山で詠まれた「会合の歌」が起点となり、須磨流離を軸にして互いに連関していたことも指摘してみた。これらの「会合」は、公的なものであり、そうした場で歌が詠まれる場合は、物語の大きな流れに沿う内容が詠まれるのかもしれない。須磨流離は物語第一部前半を形成する最も大きな主題であった。五組の「会合の歌」の検討から、こうしたことも思われるが、残された用例をみることでさらに考える必要があろう。従来の「唱和歌」規定から、どれだけ離反できたかは分からないが、残された「会合の歌」の検討を期したい。注(1)小町谷照彦「唱和歌の表現性」(『源氏物語の歌ことば表現』東大出版会、一九八四年八月)(2)拙稿「紫の上求婚譚」(『紫の上造型論』新典社、一九八八年六月)(3)河添房江「北山の光源氏」(『源氏物語表現史』_林書房、一九九八年三月)(4)注(1)に同じ。(5)高田祐彦「光源氏の復活松風巻からの視点」(『源氏物語の文学史』東大出版会、二〇〇三年九月)。この論からは多大な示唆を受け、結論的なところで重なる点があることを了解されたい。(6)注(5)に同じ。(7)竹田誠子「松風巻行幸要請についての一考察」(『物語文学論究』8、一九八三年一二月)源氏物語「会合の歌」の意義( 23 ) ― 23 ―__"}]}, "item_files": {"attribute_name": "ファイル情報", "attribute_type": "file", "attribute_value_mlt": [{"accessrole": "open_date", "date": [{"dateType": "Available", "dateValue": "2012-03-01"}], "displaytype": "detail", "download_preview_message": "", "file_order": 0, "filename": "KJ00007816020.pdf", "filesize": [{"value": "337.9 kB"}], "format": "application/pdf", 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源氏物語「会合の歌」の意義 : いわゆる「唱和歌」の再検討
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名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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KJ00007816020 (337.9 kB)
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Item type | 紀要論文(ELS) / Departmental Bulletin Paper(1) | |||||
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公開日 | 2012-03-01 | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | 源氏物語「会合の歌」の意義 : いわゆる「唱和歌」の再検討 | |||||
タイトル | ||||||
言語 | en | |||||
タイトル | Waka composed by the Meeting in the Tale of Genji | |||||
言語 | ||||||
言語 | jpn | |||||
資源タイプ | ||||||
資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_6501 | |||||
資源タイプ | departmental bulletin paper | |||||
ページ属性 | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | P(論文) | |||||
論文名よみ | ||||||
その他のタイトル | ゲンジ モノガタリ カイゴウ ノ ウタ ノ イギ イワユル ショウワカ ノ サイケントウ | |||||
著者名(日) |
倉田, 実
× 倉田, 実 |
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著者名よみ | ||||||
識別子 | 7 | |||||
姓名 | クラタ, ミノル | |||||
著者名(英) | ||||||
識別子 | 8 | |||||
姓名 | Kurata, Minoru | |||||
言語 | en | |||||
雑誌書誌ID | ||||||
収録物識別子タイプ | NCID | |||||
収録物識別子 | AN10272489 | |||||
書誌情報 |
大妻女子大学紀要. 文系 巻 44, p. 13-23, 発行日 2012-03 |